作者不詳fl. c. 256

Patristica — 教父文献 日本語対訳 › Patres Graeci › Homiliae

Homilia XVIII, Caput XIII 第XVIII講話 第XIII章

Anonymous · Homiliae · 2 sectiones

Homiliae 18.13.1

1

Καὶ ὁ Πέτρος ἔφη· ἀποκρινοῦμαι εἰς ὃ θέλεις, περὶ τοῦ· οὐδεὶς ἔγνω τὸν πατέρα, εἰ μὴ ὁ υἱός, οὐδὲ τὸν υἱόν τις οἶδεν, εἰ μὴ ὁ πατήρ, καὶ οἷς ἂν βούληται ὁ υἱὸς ἀποκαλύψαι. πρῶτον μὲν θαυμάζω, πῶς τοῦ λόγου τούτου μυρίας ἔχοντος ἐκδοχὰς σὺ τὸ ἐπικινδυνότερον ἐξελέξω μέρος, πρὸς ἀγνωσίαν τοῦ δημιουργοῦ καὶ τῶν ὑπ᾽ αὐτοῦ πάντων φήσας εἰρῆσθαι τὸν λόγον. πρῶτον μὲν γὰρ δύναται ὁ λόγος εἰρῆσθαι πρὸς πάντας Ἰουδαίους, τοὺς πατέρα νομίζοντας εἶναι Χριστοῦ τὸν Δαβὶδ, καὶ αὐτὸν δὲ τὸν Χριστὸν υἱὸν ὄντα, καὶ υἱὸν Θεοῦ μὴ ἐγνωκέναι. διὸ καὶ οἰκείως εἴρηται·

ペトロは言った。「お前が望むことについて答えよう、『誰も父を知らなかった、子のほかは。子を知る者もいなかった、父のほかは。そして子が啓示しようと欲する者たちのほかは』ということについてである。まず私が驚くのは、この言葉には無数の解釈がありうるのに、お前が、造り主とその下にあるすべてのものについての無知を語ったのだと言って、最も危険な部分を選び取ったことである。というのも、まず第一に、この言葉は、キリストの父をダビデだと考え、キリスト自身が子であるにもかかわらず、彼が神の子であるとは知らなかった、すべてのユダヤ人たちに向けて語られたと解することができるからである。それゆえ、次のようにも適切に語られているのである。」

Homiliae 18.13.2

2

οὐδεὶς ἔγνω τὸν πατέρα, ἐπεὶ ἀντὶ τοῦ Θεοῦ τὸν Δαβὶδ πάντες ἔλεγον, τὸ δὲ ἐπάζαντα εἰπεῖν, ὡς οὐδὲ τὸν υἱόν τις οἶδεν, ἐπεὶ αὐτὸν υἱὸν ὄντα οὐκ ᾔδεισαν, καὶ τὸ εἰπεῖν, οἷς ἂν βούληται ὁ υἱὸς ἀποκαλύψαι, ὀρθῶς εἴρηται, ὁ γὰρ ἀπ᾽ ἀρχῆς ὢν υἱὸς μόνος ὡρίσθη, ἵνα οἷς βούλεται ἀποκαλύψῃ. καὶ οὕτως δύναται Ἀδὰμ ὁ πρωτόπλαστος αὐτὸν μὴ ἀγνοεῖν, οὐδὲ Ἑνὼχ ὁ εὐαρεστήσας μὴ εἰδέναι, οὔτε Νῶε ὁ δίκαιος μὴ ἐπίστασθαι, οὔτε Ἀβραὰμ ὁ φίλος μὴ συνιέναι, οὐκ Ἰσαὰκ μὴ νενοηκέναι, οὐκ Ἰακὼβ ὁ παλαίσας μὴ πεπιστευκέναι, καὶ πᾶσιν τοῖς ἐν τῷ λαῷ ἀξίοις μὴ ἀποκεκαλύφθαι.

「『誰も父を知らなかった』というのは、彼らが皆、神の代わりにダビデを言っていたからであり、続けて『子を知る者もいなかった』と言われているのは、彼らが、彼が子であるということを知らなかったからである。そして『子が啓示しようと欲する者たちに啓示するであろう』と言われているのは、正しく語られている。というのも、初めから子である者だけが、欲する者たちに啓示すると定められているからである。そしてこのようにして、最初に形づくられたアダムが彼を知らなかったのではなく、彼の意に適ったエノクが知らなかったのでもなく、正しい者ノアが分からなかったのでもなく、友であるアブラハムが理解しなかったのでもなく、イサクが悟らなかったのでもなく、格闘したヤコブが信じなかったのでもない——そして民のうちのふさわしい者すべてに、啓示されなかったわけではない、ということになりうるのである。」