Acta 6.0.1
Synodus Carthagine habita, cui praefuit magnus Cyprianus, et sanctus martyr, cum esset episcopus Carthaginensis. JOANNIS ZONARAE PRAEFATIO. Est haec synodus ex omnibus antiquissima.
PL 3, 1079Aカルタゴで開かれた教会会議――これを主宰したのは、カルタゴの司教であった偉大なるキプリアヌス、すなわち聖なる殉教者である。ヨアンネス・ゾナラスの序。この教会会議は、あらゆる教会会議のなかでもっとも古いものである。
Acta 6.0.2
Nam aliis quidem antiquior est quae Antiochiae in Syria contra Paulum Samosatenum, Aureliano Romanorum imperatore, celebrata fuit; haec vero vetustate illam quoque antecedit.
PL 3, 1079Bたしかに、他の教会会議より古いものとして、ローマ皇帝アウレリアヌスの治世に、シリアのアンティオキアでサモサタのパウロスに対して開かれた教会会議があるが、この教会会議は、古さにおいてそれをも凌ぐのである。
Acta 6.0.3
Magnus siquidem Cyprianus Decio imperatore martyrii cursum confecit: at vero longo intervallo post Decium Aurelianus fuit.
PL 3, 1079Bというのも、偉大なるキプリアヌスは皇帝デキウスの治世に殉教の道のりを終えたが、アウレリアヌスはデキウスよりずっと後の時代の人であったからである。
Acta 6.0.4
Multi siquidem, Decio extincto, regnavere imperatores, quibus demum Aurelianus in imperio suffectus est, itaque longe haec synodus ex omnibus antiquissima.
PL 3, 1079Bデキウスの死後、多くの皇帝たちが世を治め、その後にようやくアウレリアヌスが帝位に就いたのであるから、この教会会議は、あらゆる教会会議のなかでも群を抜いてもっとも古いのである。
Acta 6.0.5
In ea porro quatuor supra octoginta episcopi congregati sunt, ac de iis qui, abdicata haeresi, resipiscunt, ac schismaticis qui ad Ecclesiam revertuntur, an baptizandi forent quaesitum.
PL 3, 1079Cさらにこの会議には八十四人の司教が集まり、異端を捨てて立ち返る者たちと、教会へ戻る離教者たちとに、洗礼を授けるべきかどうかが問われた。
Acta 6.0.6
Jovianus siquidem episcopus nescio quis, et cum eo episcopi alii, ea de re an scilicet ejusmodi homines baptizare oporteret, Cyprianum per epistolam consuluerant.
PL 3, 1079Cというのも、名も知れぬある司教ヨウィアヌスが、他の幾人かの司教たちとともに、そうした人々に洗礼を授けるべきかどうかについて、書簡によってキプリアヌスに相談していたからである。
Acta 6.0.7
Tunc enim Navatus quoque eorum sectae qui Cathari, hoc est puri, dicebantur, se principem profitebatur, Romanae Ecclesiae presbyter, schismaticus proprie, non haereticus.
PL 3, 1079Cそのころ、ナウァトゥス〔底本の綴りは Navatus。ローマの長老ノウァティアヌスを指す〕もまた、カタロイ、すなわち「清浄な者たち」と呼ばれる者たちの一派の首領を自称していた。彼はローマ教会の長老であり、正しくは離教者であって、異端者ではなかった。
Acta 6.0.8
Nec enim in iis quae ad dogmata pertinent, ullo pacto a Catholicis dissentiebat, sed qui adversis Christianae reipublicae temporibus, malo victi, succubuissent, diisque immolassent, ad poenitentiam non admittebat.
PL 3, 1079Cというのも、教義に関わる事柄において、彼はいかなる点でもカトリック信徒たちと異なる考えを持ってはいなかったが、キリスト教徒にとって不利な時代に、悪に打ち負かされて屈し、神々に犠牲を捧げてしまった者たちを、悔い改めへと受け入れることを拒んでいたからである。
Acta 6.0.9
Cum vero Ecclesiae Romanorum praefactus eo tempore Cornelius, cum sibi subjectis episcopis, agitata quaestione eos quoque qui immolaverant ad poenitentiam admittendos esse decrevissent; neque tamen Navatus aliquid de pertinacia remitteret, illum ab Ecclesiae corpore excisum, quippe fratrum osorem, decreto promulgavere.
PL 3, 1079Cしかし、そのときローマ教会の長であったコルネリウスが、自らに従う司教たちとともに問題を審議し、犠牲を捧げた者たちをも悔い改めへ受け入れるべきであると決した。それでもナウァトゥスは頑迷さをいささかも緩めなかったので、彼らは、彼を兄弟たちを憎む者として教会の体から断ち切り、決議によってそのことを公にした。
Acta 6.0.10
Alios vero ille sectatores nactus, seorsim conventus peragere, schismate que hinc inde suis gregalibus Ecclesiam lacerare adortus est.
PL 3, 1079Dしかし彼は、他に従う者たちを得ると、別に集会を執り行い、離教によってあちこちで自らの一党とともに教会を引き裂こうと試みた。
Acta 6.0.11
Cum ergo de schismaticis et haereticis esset a Joviano quaesitum, ad eum ejusque coepiscopos magnus Cyprianus, cum sua synodo rescribens, subjectam epistolam exaravit. ΣΥΝΟΔΟΣ Πλένομὲνη ἐπὶ Κυπριανοῦ τοῦ ἅγιωτάτου ἐπισκόπου Καρχηδόνος καὶ μάρτυρος. ΙΩΑΝΝΗΣ ΖΩΝΑΡΑΣ.
PL 3, 1079Dそこで、離教者と異端者について、ヨウィアヌスから問いが寄せられたので、偉大なるキプリアヌスは、自らの教会会議とともに、彼とその同僚司教たちに宛てて返書をしたため、以下の書簡を書き記した。至聖なるカルタゴの司教にして殉教者キプリアヌスの下に開かれた〔底本の Πλένομὲνη は語形が崩れており、文脈から「開かれた」と解した〕教会会議。ヨアンネス・ゾナラス。
Acta 6.0.12
Αὕτη ἡ σύνοδος, πασῶν τῶν συνόδων προγενεστέρα ἐστὶ. Προτερεύει μὲν γὰρ τῶν ἄλλων, ἡ ἐν Αντιοχείᾳ τῆς Συρίας γεγονυῖα σύνοδος κατὰ Παύλου τοῦ Σαμοσαθέως, ἥτις ἐπὶ Αυρηλιανοῦ βασιλέως ἠθροίσθη· αὕτη δὲ κᾀκείνης ἀρχαιοτέρα ἐστίν.
PL 3, 1079Dこの教会会議は、あらゆる教会会議のなかでもっとも古いものである。たしかに、他の会議に先立つものとして、シリアのアンティオキアでサモサタのパウロスに対して開かれ、皇帝アウレリアヌスの治世に召集された教会会議があるが、この教会会議は、それよりもさらに古いのである。
Acta 6.0.13
Ὁ γὰρ μέγας Κυπριανὸς, ἐπὶ Δεκίου βασιλέως τὸν τῆς μαρτυρίας, ἤνυσε δρόμον, πολλοστὸς δ' ἔστιν ὁ Αὐρηλιανὸς πρὸς τὸν Δέκιον Πολλοὶ γὰρ μετὰ τὸν Δέκιον ἐκράτησαν αὐτοκράτορες, μεθ' οὓς ὁ Αὐρηλιανὸς τῆς βασιλείας ἠξιώτο. Οὕτω μὲν οὖν προγενεστέρα πασῶν ἐστίν.
PL 3, 1080Bというのも、偉大なるキプリアヌスは、皇帝デキウスの治世に殉教の道のりを終えたのであり、アウレリアヌスはデキウスからかなり後の人だからである。デキウスの後、多くの皇帝たちが権を握り、その後にようやくアウレリアヌスが帝位にふさわしいとされたのである。こうして、この会議はあらゆる会議のなかでもっとも古いものなのである。
Acta 6.0.14
Ἠθροίσθησαν δὲ ἐν αὐτῇ ἐπίσκοποι πρὸς τέσσαρσιν ὀγδοήκοντα, ζητήσεως γενομένης, εἰ τοὺς ἐξ αἱρέσεως ἐπιστρέφοντας, καὶ τοὺς σχισματικοὺς βαπτίζεσθαι δεῖ προσερχομένους τῇ καθολικῇ Ἐκκλεσία.
PL 3, 1080Cこの会議には八十四人の司教が集まり、異端から立ち返る者たちと、離教者たちとが、公同の教会へ来るにあたって洗礼を受けるべきかどうかが問われた。
Acta 6.0.15
Ἰοβιανὸς γὰρ τις ἐπίσκοπος ἀπέστειλε περὶ τούτου τῷ θείῳ Κυπριανῷ, ἐρωτῶν, εἰ δεῖ τοὺς τοιούτους βαπτίζεσθαι.
PL 3, 1080Cというのも、ヨウィアヌスというある司教が、この件について、尊いキプリアヌスのもとへ書き送り、そうした者たちに洗礼を授けるべきかどうかを尋ねたからである。
Acta 6.0.16
Τότε γὰρ καὶ ὁ Ναυάτος τῆς τῶν λεγομένων Καθαρῶν αἱρέσεως ἦρξε, πρεσβύτερος γεγονὼς τῆς ἐκκλησίας Ρωμαίων, σχισματικὸς ὢν κυρίως, ἀλλ' οὐχ αἱρετικός. οὐ γὰρ πρὸς δόγματι τοῖς ὀρθόφροσι διεφέρετο, ἀλλὰ τοῖς ἐν διωγμοῖς ὑποκύφασί τε καὶ θυσασιν ἀπηγόρευε τὴν μετάνοιαν.
PL 3, 1080Cそのころ、ナウァトゥスもまた、カタロイと呼ばれる者たちの異端の首領となった。彼はローマ人の教会の長老であって、正しくは離教者であり、異端者ではなかった。教義においては正統信仰の者たちと異なるところがなかったが、迫害のうちに屈して犠牲を捧げた者たちに、悔い改めを禁じていたのである。
Acta 6.0.17
Ἐπειδὴ ὁ τότε τῆς Ρωμαίων ἐκκλεσίας προεσηκὼς Κορνήλιος μετὰ τῶν ὑπ' αὐτὸν ἐπισκόπων ζητήσαντες περὶ τοῦ εἰσαγομένου, ἐψηφίσαντο δέχεσθαι εἰς μετάνοιαν, καὶ τοὺς ἐπιθύσαντας· ὁ δὲ Ναυάτος τῆς οἰκείας ἐνστάσεως οὐ μεθίετο, ἐξέκοψαν τῆς ἐκκλεσίας ἐκεῖνον, καὶ ἀπεκήρυξαν ὡς μισάδελφον.
PL 3, 1080Cそのころローマ人の教会の長であったコルネリウスは、自らに従う司教たちとともに、持ち出された問題について審議し、犠牲を捧げた者たちをも悔い改めへ受け入れることを議決した。しかしナウァトゥスは自らの強情を緩めなかったので、彼らは彼を教会から切り離し、兄弟を憎む者として排斥した。
Acta 6.0.18
Ὁ δὲ καὶ ἄλλους ὁμόφρονας ἐσχηκὼς, καθ' ἑαυτὸν ἐποιεῖτο παρασυνάζεις, καὶ σχίσμα παρὰ τῇ Ἐκκλησίᾳ ὑπ' ἐκείνου καὶ τῶν αὐτῷ συγκοινωνούντων ἐγένετο.
PL 3, 1080Dしかし彼は、他にも同意見の者たちを得ると、自分だけで別の集会を開き、彼と彼に与する者たちによって、教会のもとに離教が生じたのである。
Acta 6.0.19
Περὶ σκισματικῶν τοίνυν καὶ αἱρετικῶν ἑρωτήσαντος Ἰοβιανοῦ ἀντεπέστειλεν αὐτῷ τε καὶ τοῖς συνεπισκόποις αὐτοῦ ὁ μέγας Κυπριανὸς, καὶ ἡ σὺν αὐτῷ σύνοδος τὴν ἐπιστολὴν ταύτην. EPISTOLA MAGNI CYPRIANI Ad Jovianum ejusque episcopos.
PL 3, 1080Dこうして、離教者と異端者について、ヨウィアヌスが問うたので、偉大なるキプリアヌスと、彼とともにある教会会議は、彼とその同僚司教たちに宛てて、この書簡を返書として送った。偉大なるキプリアヌスの書簡――ヨウィアヌスとその司教たちへ。
Acta 6.0.20
Cum in communi concilio essemus, dilecti fratres, legimus litteras a vobis missas, de iis qui ab haereticis vel schismaticis baptizari visi sunt, venientibus ad catholicam Ecclesiam, quae una est, in qua baptizamur et regeneramur.
PL 3, 1080D我々が共通の会議に列していたとき、最愛の兄弟たちよ、諸君から送られた書簡を読んだ。それは、異端者あるいは離教者によって洗礼を授けられたと見える者たちが、公同の教会――それはただ一つであり、我々はそこで洗礼を受け、新たに生まれる――へと来ることについてであった。
Acta 6.0.21
De quibus confidimus, vos quoque qui in illa agetis, catholicae Ecclesiae canonis firmitatem tenere: tamen quoniam nobiscum estis communionis participes, et propter communem dilectionem de eo quaerere voluistis, non novam sententiam neque nunc fundatam afferimus; sed quae olim ab antiquioribus accuratissime et diligentissime fuit examinata, eam a vobis observandam vobis communicavimus, et conjungimus, id quoque nunc statuentes, quod semper fortiter stabiliterque tenuimus, ut nemo possit baptizari extra Ecclesiae catholicae Baptismum. qui unus est, et in sola catholica Ecclesia reperitur.
PL 3, 1081Aこの点について我々は確信している。すなわち、諸君もまた、その教会のうちにあって行動する者として、公同の教会の規範の確固たることを保持している、と。しかし、諸君は我々とともに交わりにあずかる者であり、共通の愛のゆえにこの件を問うことを望んだのであるから、我々は今にわかに立てられた新しい見解を差し出すのではない。むしろ、かつて先達たちによって、この上なく厳密かつ入念に吟味されたものを、諸君が守るべきものとして分かち合い、諸君と結び合わせる。そしてまた今、我々が常に強く確固として保持してきたことを、改めて定める。すなわち、公同の教会の洗礼の外では、誰も洗礼を受けることができないということである。この洗礼はただ一つであり、公同の教会のうちにのみ見出される。
Acta 6.0.22
Scriptum est enim: Me reliquerunt fontem aquae vivae, et foderunt sibi lacus perforatos, qui aquam continere nequeunt. Et rursus sacra Scriptura hoc praesignificans dicit: Ab aqua aliena abstinete, et ex fonte alieno ne bibite.
PL 3, 1081Bすなわちこう書かれている。「彼らは、生ける水の泉であるわたしを捨て、自分のために、水を湛えることのできない、破れた井戸を掘った」と。そして聖書は再び、このことを予め示してこう言う。「他人の水を遠ざけ、他人の泉から飲んではならない」と。
Acta 6.0.23
Oportet autem aquam primum purgari et sanctificari a sacerdote, ut possit proprio Baptismate hominis qui baptizatur peccata eluere.
PL 3, 1081Bしかし水は、まず司教によって清められ、聖化されなければならない。そうして初めて、固有の洗礼によって、洗礼を受ける人間の罪を洗い流すことができるのである。
Acta 6.0.24
Nam et per Ezechielem prophetam dicit Dominus: Et aspergam vos aqua pura, et mundabo vobis cor novum, et spiritum novum dabo vobis; et cum dicat Dominus in Numeris: Et omnia quae tanget immundus, immunda erunt: quomodo potest baptizans dare alii remissionem peccatorum, qui non potest propria peccata extra Ecclesiam dimittere?
PL 3, 1081Bというのも、預言者エゼキエルを通して主はこう言われるからである。「わたしは清い水を汝らに振りかけ、汝らに新しい心を清め与え、新しい霊を汝らのうちに授けよう」と。また主は『民数記』でこう言われる。「汚れた者が触れるものはすべて、汚れたものとなる」と。それならば、教会の外では自らの罪を赦すことのできない者が、いかにして他者に洗礼を授けて罪の赦しを与えることができようか。
Acta 6.0.25
Sed et ipsa interrogatio quae fit in Baptismate, est testis veritatis; dicentes enim ei qui examinatur: Credis vitam aeternam et remissionem peccatorum accipere? nihil aliud dicimus, quam quod in catholica Ecclesia haec dari possunt.
PL 3, 1081Cしかし、洗礼において行われるまさにその問いかけ自体が、真理の証人である。すなわち、試問される者にこう言うとき――「汝は、永遠の生命と罪の赦しとを受けることを信じるか」――我々はほかでもなく、これらは公同の教会においてのみ与えられうるということを言っているのである。
Acta 6.0.26
Apud haereticos autem, ubi Ecclesia non est, haberi non potest peccatorum remissio: et ideo qui haereticorum patrocinium suscipiunt, vel debent interrogationem mutare, vel veritatem intueri.
PL 3, 1081Cしかし異端者たちのもとには、教会が無いのであるから、罪の赦しを得ることはできない。それゆえ、異端者たちの弁護を引き受ける者たちは、その問いかけの文言を変えるか、さもなくば真理を見つめるか、そのいずれかをしなければならない。
Acta 6.0.27
Necesse est etiam eum qui baptizatus est, inungi, ut accepta unctione, fiat Christi particeps. Sanctificare autem oleum non potest haereticus, qui nec altare habet, nec Ecclesiam. Non potest autem omnino Chrisma esse apud haereticos.
PL 3, 1081Cまた、洗礼を受けた者は塗油されることが必要である。塗油を受けることによって、キリストにあずかる者となるためである。しかし異端者は、祭壇も教会も持たないのであるから、油を聖別することはできない。それゆえ、異端者たちのもとには、そもそも聖香油があり得ないのである。
Acta 6.0.28
Nobis enim clarum est, nullo modo apud illos sanctificari posse oleum ad gratiarum actionem. Scire enim, et non ignorare debemus quod scriptum est: Oleum peccatoris non impinguet caput meum.
PL 3, 1081D我々にとって明らかなのは、彼らのもとでは感謝の行為のための油が、決して聖別されえないということである。というのも、こう書かれていることを、我々は知っておくべきであり、知らずにいてはならないからである。「罪人の油は、わたしの頭を潤すことのないように」と。
Acta 6.0.29
Quod quidem etiam olim significavit sanctus Spiritus in Psalmis, ne forte abductus aliquis, et a recta via aberrans, apud haereticos, Christi adversarios, inungatur.
PL 3, 1081Dこのことは、かつて聖なる霊が詩篇において、既にほのめかしていたことである。すなわち、誰かが誘い出され、正しい道から迷い出て、キリストの敵対者である異端者たちのもとで塗油されることのないように、との意である。
Acta 6.0.30
Quomodo autem pro eo qui baptizatus est peccabitur, non sacerdos, sed sacrilegus, et peccator? dicente Scriptura, quod Deus peccatores non audit, sed si quis est pius ac religiosus, et ejus voluntatem facit, eum audit.
PL 3, 1081Dしかし、洗礼を受けた者のために、司教ではなく、冒瀆者であり罪人である者が、どうして祈ることができようか〔底本は peccabitur。意味が取れないので、ギリシア語版の εὔξεται に従って「祈る」と解した〕。聖書はこう言っている。神は罪人の言うことを聞かれない、しかしもし敬虔で信心深い者があり、神の御旨を行うならば、神はその者の言うことを聞かれる、と。
Acta 6.0.31
Per sanctam Ecclesiam peccatorum remissionem intelligimus: Quis autem dare potest id quod ipse non habet? vel quomodo potest operari spiritalia, qui Spiritum sanctum abjecit? Et ideo etiam renovari debet qui ad Ecclesiam accedit, ut intus per sanctos sanctificetur.
PL 3, 1083A我々は、罪の赦しを聖なる教会を通して理解する。しかし、自ら持たぬものを、誰が与えることができようか。あるいは、聖なる霊を投げ捨てた者が、どうして霊的な業をなすことができようか。それゆえ、教会に近づく者は新たにされなければならない。それは、内において聖なる者たちを通して聖化されるためである。
Acta 6.0.32
Scriptum est enim: Sancti eritis, sicut et ego sanctus sum, dicit Dominus, ut qui in errorem seductus est, in vero et ecclesiastico Baptismate, ipse quoque hoc exuat, qui homo ad Deum accedens et sacerdotem quaerens, in errore inventus in sacrilegium incidit.
PL 3, 1083A『汝らは聖なる者となれ、私が聖なる者であるように』と主が言われるとおり、こう書かれているからである。それゆえ、誤りに惑わされた者も、真実で教会的な洗礼においてこの誤りを脱ぎ捨てるべきである。すなわち、神に近づき司教を求めながら誤りのうちに見出される人間は、冒瀆に陥っているのである。
Acta 6.0.33
Est enim haereticorum et schismaticorum haeresim probare, eos qui ab illis baptizati sunt comprobare.
PL 3, 1083A異端者や離教者の異端を是認するとは、彼らによって洗礼を授けられた者たちを是認することにほかならないからである。
Acta 6.0.34
Non enim potest in parte valere; si enim non potuit is qui est extra habere spiritum, non potest venientem baptizare, cum sit unus Baptismus, et unus sanctus Spiritus, et una Ecclesia, a Christo Domino nostro dicente, ab initio supra Petrum apostolum fundata unitate.
PL 3, 1083Aなぜなら、部分的に有効であることはあり得ないからである。すなわち、教会の外にいる者が霊を持つことができないのであれば、その者はやって来る者に洗礼を授けることもできない。洗礼は一つ、聖なる霊も一つ、教会も一つだからである。この一致は、我々の主キリストが言われたとおり、初めから使徒ペトロの上に据えられて基礎づけられたものである。
Acta 6.0.35
Et ideo quae ab eis facta sunt, cum sint falsa et vana, omnia sunt reprobata. Neque enim potest esse Deo gratum et acceptum quod fit ab illis, quos Dominus hostes et adversarios dicit in Evangeliis: Qui non est mecum, contra me est, et qui non colligit mecum, dispergit.
PL 3, 1083Bそれゆえ、彼らによってなされたことは、偽りであり空しいものであるがゆえに、すべて退けられるべきものである。主が福音書のうちで敵、また反対者と呼ばれる者たちによってなされたことが、神に喜ばれ受け入れられることなど、決してあり得ないからである。『私と共にいない者は私に敵対する者であり、私と共に集めない者は散らす者である』。
Acta 6.0.36
Quin etiam beatus apostolus Joannes praecepta Domini servans, in Epistola praescripsit: Audivistis quod antichristus venit, et nunc etiam multi antichristi facti sunt. Unde cognoscimus quod extrema hora est. Ex nobis exierunt, sed non erant ex nobis.
PL 3, 1083Bさらに、祝された使徒ヨハネも、主の命令を守って、その書簡にこう記している。『汝らは、反キリストが来ると聞いた。そして今や、多くの反キリストが現れている。それによって、我々はこれが終わりの時であることを知る。彼らは我々のうちから出て行ったが、我々に属する者ではなかった。』
Acta 6.0.37
Unde et nos intelligere et cogitare debemus, si Dei inimici, et qui antichristi sunt nominati, Domini gratiam dare non possunt, ideo nos qui sumus cum Domino, et Domini unitatem tenemus, ut pro ejus dignitate suppeditantes, sacerdotium ejus in Ecclesia gerimus, quaecumque adversarii et ipsius generis hostes, et antichristi faciunt, reprobare, removere, et abjicere, et pro profanis habere debemus: iisque qui ab errore et perversitate veniunt, verae et ecclesiasticae fidei omnino cognitionem dare, divinae potentiae mysterium, et unitatis, et fidei, et veritatis.
PL 3, 1083Bそれゆえ我々もまた、次のことを理解し考えなければならない。すなわち、神の敵であり反キリストと呼ばれる者たちが主の恩寵を与えることができないのであれば、主と共にあって主の一致を保ち、その尊厳にふさわしく仕えて、教会において主の司教職を執り行う我々は、反対者や同類の敵、反キリストがなすことをすべて斥け、取り除き、投げ捨てて、涜聖のものとして扱わねばならない。そして、誤りと曲がった道から来る者たちには、真実で教会的な信仰の認識、すなわち神的な力の秘義、一致、信仰、真理の認識を、余すところなく与えなければならない。
Acta 6.0.38
ZONARAS. Epistola haec, quoscumque ab haereticis, aut schismaticis baptizatos, si ad Ecclesiam catholicam se recipiant, iterum baptizari jubet, eamque sententiam variis epichirematibus ac enthymemathibus, Scripturaeque testimoniis confirmat.
PL 3, 1083Cゾナラス。この書簡は、異端者や離教者によって洗礼を授けられた者が誰であれ、公同の教会に立ち帰るならば、再び洗礼を授けられるべきことを命じており、その見解を様々な論拠や推論、そして聖書の証言によって確証している。
Acta 6.0.39
At vero secunda aecumenica synodus canone septimo, non omnes qui ex haeresi demigrant, Baptismo iterum expiandos, sed alios quidem si datis libellis suam praeterea quisque haeresim omnemque a catholica et apostolica Dei Ecclesia alienum errorem execrentur, charactere notatos, hoc est sancto Chrismate inunctos admitti oportere decernit; alios vero omnes, ex quibus nonnullos nominatim designat, baptizari, atque ut Graecos admitti jubet.
PL 3, 1083Cしかし第二全地公会議は、その第七規定において、異端から移ってくる者すべてが再び洗礼によって清められるべきだとは定めておらず、むしろ、ある者たちについては、誓約書を提出し、各自が自らの異端と、公同にして使徒的な神の教会から異なるすべての誤りとを呪詛するならば、しるしを付けられること、すなわち聖なる香油によって塗油されることをもって迎え入れられるべきであると決定し、他の者たち――そのうち幾人かは名指しで挙げられている――についてはすべて、洗礼を授けられ、ギリシア人として迎え入れられるべきことを命じている。
Acta 6.0.40
Qui quidem etiam canon suo loco explicatus est: proindeque ejus canonis constitutionem a sanctis postea Patribus receptam haud fuisse facile apparet.
PL 3, 1083Dこの規定については、しかるべき箇所ですでに解説されている。したがって、この規定の定めが後代の聖なる教父たちによって受け入れられなかったことは、容易に知られるところである。
Acta 6.0.41
Cum igitur de eadem re duo synodi contraria inter se decreta protulerint, potior habenda est secundae synodi constitutio, quippe quae et posterior fuit et aecumenica, in qua omnes scilicet quicumque patriarcham sedem obtinent, aut ipsimet patriarchae, aut ipsorum legati affuerunt.
PL 3, 1083Dしたがって、同じ事柄について二つの教会会議が互いに相反する決定を下した以上、第二の会議の定めをより重んじるべきである。なぜなら、それはより後のものであり、かつ全地公会議であって、そこには総主教座を占めるすべての者、すなわち総主教たち自身、あるいはその使節たちが出席していたからである。
Acta 6.0.42
Porro hunc canonem nequaquam a sanctis Patribus universis receptum fuisse, vel ex secundo canone synodi in Trullo habitae, quae sexta dicitur, intelligi licet.
PL 3, 1085Aさらに、この規定がすべての聖なる教父たちによって受け入れられなかったことは、トゥルロで開催され、第六と呼ばれる教会会議の第二規定からも知ることができる。
Acta 6.0.43
Ibi namque sancti Patres eis canonibus quorum rata auctoritas esse debet sigillatim enumeratis, de hoc canone totidem omnino verbis ita pronuntiant.
PL 3, 1085Aなぜなら、そこで聖なる教父たちは、権威が確定されるべき規定を一つ一つ列挙したうえで、この規定について、まさに次のとおりの言葉で述べているからである。
Acta 6.0.44
Praeterea vero, inquiunt, et a Cypriano, qui Afrorum regionis fuit archiepiscopus, et martyr, et a synodo quae sub eo fuit editum canonem, qui in illorum praesulum locis tantummodo juxta traditam ab eis consuetudinem servatus est.
PL 3, 1085A『さらに、アフリカ地方の大司教であり殉教者であったキプリアヌスと、彼のもとにあった教会会議とが定めた規定についても、それはただ彼らの司教たちの管轄地においてのみ、彼らから伝えられた慣習に従って守られてきたのである』と彼らは言う。
Acta 6.0.45
Ex hoc loco igitur, primis quoque temporibus canonem hunc nequaquam apud omnes valuisse facile apparet.
PL 3, 1085Aしたがって、この一節から、この規定が最初の時代にあってもすべての者のもとで通用していたわけではなかったことが、容易に知られるのである。
Acta 6.0.46
Hic igitur est textus epistolae: Quae vero in communi disceptatione dictae sunt a singulis, qui in synodo convenerant, ita se habent: Cyprianus dixit: Audistis, collegae dilectissimi, quid mihi Jubaianus, coepiscopus noster, scripserit consulens mediocritatem nostram de illicito et profano haereticorum Baptismo, et quid ego ei rescripserim, censens licet, quod semel atque iterum et saepe censuimus haereticos ad Ecclesiam venientes Baptismo ( Ecclesiae ) baptizari et sanctificari oportere.
PL 3, 1085Bさて、その書簡の本文は次のとおりである。すなわち、会議に集まった一人ひとりが共同の審議において述べたことは、次のとおりである。キプリアヌスは言った。『最愛の同僚たちよ、我々の同僚司教ヨウィアヌスが、異端者たちの不法で涜聖な洗礼について、我々のような取るに足りない者に意見を求めて何を書き送ったか、また私が彼に何を返信したかを、諸君は聞いたであろう。私は、一度ならず二度、そしてしばしば判断してきたとおり、教会に来る異端者は(教会の)洗礼によって洗礼を授けられ、聖化されなければならない、と判断して返信したのである。』
Acta 6.0.47
Item lectae sunt vobis et aliae litterae Jubaiani, quibus pro sua sincera et religiosa devotione ad epistolam nostram rescribens, non tantum consensit, sed etiam instructum se esse gratias confessus egit.
PL 3, 1085B同様に、諸君にはヨウィアヌスのもう一つの書簡も読み聞かされた。彼はその純粋で敬虔な献身のゆえに、我々の書簡に返信するにあたって、同意しただけでなく、教えを受けたことを告白し、感謝を捧げたのである。
Acta 6.0.48
Superest ut de hac ipsa re quid singuli sentiamus, proferamus, neminem judicantes, ut a jure communionis aliquem, si diversum senserit, amoventes.
PL 3, 1085C残るところは、この事柄そのものについて、我々一人ひとりが何を考えているかを述べることである。誰をも裁くことなく、たとえ異なる考えを持つ者があっても、その者を交わりの権利から退けることはしない。
Acta 6.0.49
Neque enim quisquam nostrum episcopum se ( esse episcoporum ) constituit, aut tyriannico terrore ad obsequendi necessitatem collegas suos adigit, quando habeat omnis episcopus pro licentia libertates et potestatis, suae arbitrium proprium, tamquam judicari ab alio non possit cum nec ipse possit alterum judicare: sed exspectemus universi judicium Domini Nostri Jesu Christi, qui unus et solus habet potestatem et praeponendi nos in Ecclesiae suae gubernatione, et de actu nostro judicandi.
PL 3, 1085Cなぜなら、我々のうち誰も、自らを(司教の)司教として立てることはなく、また僭主的な脅しによって、自分の同僚たちに服従を強いることもないからである。すべての司教は、その職権にもとづく自由と権力により〔底本は pro licentia libertates et potestatis。語形が崩れており、このように解した〕、自らの判断を有しており、他人によって裁かれることはできず、また自分自身も他人を裁くことができないのと同様である。むしろ我々はみな、我々の主イエス・キリストの裁きを待つべきである。主こそ、ただひとり、教会の統治において我々を立てる権力を持ち、我々一人ひとりの行いを裁く権力を持つ方である。
Acta 6.0.50
Cum Dominus noster Jesus Christus dicat: Qui non est mecum contra me est, et Joannes apostolus eos qui ab Ecclesia exeunt, antichristos dicat.
PL 3, 1085C我々の主イエス・キリストは、『私と共にいない者は私に敵対する者である』と言われ、使徒ヨハネは、教会から出て行く者たちを反キリストと呼んでいる。
Acta 6.0.51
Impossibile enim est ut ipsi gratiae Dei et salutari baptismo inserviant; et ideo censeo eos qui ad Ecclesiam confugiunt et a nobis esse baptizandos. ΕΠΙΣΤΟΛΗ ΤΟΥ ΜΕΓΑΛΟΥ Κυπριανοῦ πρὸς τὸν Ἰοβιανὸν καὶ ἐκείνου συνεπισκοπους.
PL 3, 1085D彼らが神の恩寵と救いをもたらす洗礼とに仕えることは不可能である。それゆえ私は、教会に逃れてくる者たちは、我々によって洗礼を授けられなければならないと考える。大いなるキプリアヌスより、ヨウィアヌスおよびその同僚司教たちへの書簡。
Acta 6.0.52
Ἐν κοινοβουλίῳ ὄντες ἀγαπητοὶ ἀδελφοὶ ἀνέγνωμεν γραμμάτα ἀφ' ὑμῶν στάλεντα παρὰ τῶν τοῖς αἱρετικοῖς ἣ σχισματικοῖς δοκούντων βαπτίζεσθαι ἐρχομένων πρὸς τὴν καθολικὴν Ἐκκλησίαν, ἥτις ἐστὶ μία, ἐν ᾗ βαπτιζόμεθα καὶ ἀναγεννώμεθα.
PL 3, 1085D我々は共同の会議のうちにあって、愛する兄弟たちよ、諸君から送られた書簡を読んだ。それは、異端者や離教者によって洗礼を授けられたと見える者たちで、公同の教会――それは一つであり、その中で我々は洗礼を受け、新たに生まれる――へとやって来る者たちについてのものであった。
Acta 6.0.53
Περὶ ὧν καὶ πεποίθαμεν, καὶ ὑμᾶς αὐτοὺς ἐκεῖνα πραττόντας τὴν στεῤῥότητα τῆς καθολικῆς Ἐκκλεσίας κατακρατεῖν· ὅμως ἐπεὶ συγκοινωνοὶ ἡμῶν ἐστε, καὶ ζητῆσαι περὶ τούτου διὰ τὴν κοινὴν αγάπην ὴθελήσατε, οὐ πρόσφατον γνώμην, οὐδὲ νῦν ἡδρασμένην προσφέρομεν, ἀλλὰ τὴν πάλαι ὑπὸ τῶν προγενεστέρων ἡμῶν μετὰ πάσης ἀκριβείας καὶ ἐπιμελείας δεδοκιμασμένην, καὶ ὑφ' ὑμῶν παρατηρηθεῖσαν, κοινοῦμεθα ὑμῖν καὶ συζεύγνυμεν, τοῦτο καὶ νῦν χειροτονοῦντες, ὅπως διὰ παντὸς ἰσχυρῶς καὶ ἀσφαλῶς κρατοῦντες μηδένα βαπτίζεσθαι δύνασθαι ἔξω τῆς καθολικῆς Ἐκκλεσίας ἑνὸς ὃντος βαπτίσματος, καὶ ἐν μόνῃ καθολικῇ Ἐκκλεσίᾳ ὑπάρχοντος.
PL 3, 1085Dこれについて我々は、諸君自身もそれを実践するにあたって公同の教会の堅固さを保持していることを確信している。とはいえ、諸君は我々の交わりに与る者であり、共通の愛のゆえにこのことについて尋ねることを望んだので、我々は新奇な見解でも、今になって据えられた見解でもなく、かつて我々の先達たちによってあらゆる正確さと入念さをもって吟味され、諸君によっても守られてきた見解を、諸君と分かち合い、結び合わせる。そして今これを定める。すなわち、洗礼は一つであり、ただ公同の教会のうちにのみ存在するのであるから、公同の教会の外では誰も洗礼を受けることができないと、常に強く確固として保持すべきである。
Acta 6.0.54
Γέγραπται γάρ Ἐμὲ ἐγκατέλιπον πηγὴν ὕδατος ζῶντος, καὶ ὤρυξαν ἑαυτοῖς λάκκους συντετριμμένους, καὶ μὴ δυναμένους ὕδωρ συσχεῖν. Καὶ πάλιν ἡ ἁγία Γραφὴ προμηνυούσα λέγει· Ἀπὸ ὓδατος ἀλλοτρίου ἀπόσχεσθε, καὶ ἀπὸ πηγῆς αλλοτρίας μὴ πίητε.
PL 3, 1085Dこう書かれているからである。『彼らは生ける水の泉である私を捨て、水を湛えることのできない、砕けた井戸を自分たちのために掘った。』また、聖書は重ねて予め告げてこう言う。『他人の水を控えよ、他人の泉から飲むな。』
Acta 6.0.55
Δεῖ δὲ καθαρίζεσθαι, καὶ ἁγιάζεσθαι τὸ ὕδωρ πρῶτον ἀπὸ τοῦ ἵερέως, ἵνα δυνηθῇ τῷ ἰδίῳ βαπτίσματι τὰς ἁμαρτίας τοῦ βαπτίζομένου ἀνθρώπου ἀποσμῦζαι.
PL 3, 1085D水はまず司教によって清められ、聖別されなければならない。そうしてはじめて、固有の洗礼によって、洗礼を受ける人間の罪を洗い清める〔底本の ἀποσμῦζαι は語形が崩れているらしく、文脈から「洗い清める」と解した〕ことができるのである。
Acta 6.0.56
Διά τε Ἰεζεκιὴλ τοῦ προφήτου λέγει Κύριὸς· Καὶ ῥαντίσω ὑμᾶς καθαρῷ ὕδατι, καὶ καθαριῶ ὑμᾶς, καὶ δώσω ὑμῖν καρδίαν καινὴν· καὶ πνεῦμα καινὸν δώσω ἐν ὑμῖν. (Πῶς δὲ δύναται καθαρίσαι καὶ ἁγιάσαι ὕδωρ, ὁ ἀκάθαρτος ὣν αὐτὸς, καὶ παρ' ᾧ πνεῦμα ἅγιον οὐκ ἐστί;) Λέγοντος τοῦ Κυρίου ἐν τοῖς Αριθμοῖς· Καὶ πάντων ὧν ἅψεται ὁ ἀκάθαρτος, ἀκάθαρτα ἔσται, πῶς βαπτίζων δύναται ἄλλω δοῦναι ἄεσιν ἁμαρτιῶν ὁ μὴ δυνηθεὶς τὰ ἴδια ἁμαρτήματα ἔξω τῆς Ἐκκλεσίας ἀποθέσθαι; Ἀλλὰ καὶ αὐτὴ ἡ ἐρώτησις ἡ ἐν τῷ βαπτίσματι γινομένη, μάρτυς ἐστὶ τῆς ἁληθείας.
PL 3, 1085Dそして預言者エゼキエルによって、主はこう言われる。『私は清い水を汝らに振りかけて汝らを清め、新しい心を汝らに与え、新しい霊を汝らのうちに与えよう。』(しかし、自ら汚れていて、聖なる霊を持たない者が、どうして水を清め、聖別することができようか。)主は民数記のうちでこう言われる。『汚れた者が触れるものはすべて汚れたものとなる。』それならば、自分自身の罪を教会の外で捨て去ることのできない者が、洗礼を授けることによって、どうして他人に罪の赦しを与えることができようか。しかし、洗礼において行われるこの問いかけそのものが、真理の証人なのである。
Acta 6.0.57
Λέγοντες γὰρ τῷ ἐξεταζομένῳ, πισεύεις αἰώνιον ζωὴν καὶ ἄφεσιν ἁμαρτιῶν λαμβάνειν, οὐκ ἂλλο τι λέγομεν, εἰ μὴ ὅτι ἐν τῇ καθολικῇ Ἐκκλεσίᾳ δοθῆναι δύναται.
PL 3, 1085Dなぜなら、我々は試問される者にこう問いかけるとき――『汝は永遠の生命と罪の赦しとを受けることを信じるか』――それは、それらが公同の教会においてのみ与えられうる、ということ以外の何ものも言っていないからである。
Acta 6.0.58
Παρὰ δὲ τοῖς αἱρετικοῖς ὅπου Ἐκκλησία οὐκ ἔστιν, ἀδύνατον ἀμαρτημάτων ἄφεσιν λαβεῖν, καὶ διὰ τοῦτο οἱ τῶν αἱρετικῶν συνὴγοροι ἢ τὴν ἐπερῶτησιν ἀλλάξαι ὀφείλουσιν, ἢ τὴν ἀλήθειαν ἐκδικῆσαι, εἰ μὴ τι αὐτοῖς καὶ τὴν Ἐκκλησίαν προσνέμουσιν, οὒς βάπτισμα ἒχειν διαβεβαιοῦνται.
PL 3, 1085Dしかし、異端者たちのもとには教会が存在しないのだから、罪の赦しを受けることは不可能である。それゆえ、異端者たちを弁護する者たちは、その問いかけを変えるか、あるいは真理を守るかのいずれかをしなければならない。彼らに洗礼があると断言する以上、教会をも彼らに帰することになるのでない限りは。
Acta 6.0.59
Ἀνάγκη δέ ἐστι καὶ χρίεσθαι τὁν βεβαπτισμένον, ἵνα λαβὼν χρίσμα, μέτοχος γένηται Χριστοῦ. Ἁγίασαι δὲ ἒλαιον οὐ δύναται ὁ αἱρετικὸς ὁ μήτε θυσιαστήριον ἔχων, μήτε ἐκκλεσίαν, ὅθεν οὐ δύναται χρίσμα τὸ παράπαν παρὰ τοῖς αἱρετικοῖς εἶναι.
PL 3, 1085Dまた、洗礼を受けた者は塗油されることも必要である。塗油を受けることによって、キリストにあずかる者となるためである。しかし、祭壇も教会も持たない異端者は、油を聖別することができない。それゆえ、異端者たちのもとには、聖なる香油はまったく存在しえないのである。
Acta 6.0.60
Πρόδηλον γάρ ἐστιν ἡμῖν μηδαμῶς δύνασθαι ἁγιάζεσθαι παρ' ἐκείνοις ἔλαιον εἰς εὐχαριστίαν. Εἰδέναι γὰρ καὶ μὴ ἀγνοεῖν ὀφείλομεν, ὅτι γέγραπται· Ἔλαιον ἀμαρτωλοῦ τὴν κεφαλὴν μοῦ μὴ λιπανάτω.
PL 3, 1085D彼らのもとでは、感謝のための油が決して聖別されえないことは、我々にとって明白だからである。なぜなら、我々は、こう書かれていることを知り、知らずにいてはならないからである。『罪びとの油は、私の頭を潤すな。』
Acta 6.0.61
Ὅ δὴ καὶ πάλαι εμηνύσε τὸ Πνεῦμα τὸ ἅγιον ἐν Ψαλμοῖς, μή πῶς ἐξιχνιασθείς τις, καὶ ἀπὸ τῆς εὐθείας ὁδοῦ πλανηθεὶς παρὰ τοῖς αἱρετικοῖς τοῖς τοῦ Χριστοῦ ἀντιπάλοις χρισθῇ.
PL 3, 1085Dこれはまさに、聖なる霊がかつて詩篇のうちで示していたことである。すなわち、誰かが道を踏み外し〔底本の ἐξιχνιασθείς は語形が崩れているらしく、文脈から「道を踏み外す」と解した〕、まっすぐな道から迷い出て、キリストに敵対する異端者たちのもとで塗油されることのないように、というのである。
Acta 6.0.62
Πῶς δὲ εὔξεται ὑπὲρ τοῦ βάπτιστεντος οὐχὶ ἱερεὺς, ἀλλ' ἱερόσυλος καὶ ἀμαρτωλὸς, λεγούσης τῆς Γραφῆς· ὅτι ὁ Θεὸς ἀμαρτωλῶν οὐκ ἀκούει, ἀλλ' ἐάν τις θεοσεβὴς ᾗ, καὶ τὸ θέλημα αὐτοῦ ποιῇ, τούτου ἀκούει; Διὰ τῆς ἁγίας Ἑκκλεσίας νοοῦμεν ἄφεσιν ἀμαρτιῶν· Τίς δὲ δύναται δοῦναι ὅπερ αὐτὸς οὐκ ἒχει, ἢ πῶς δύναται πνεῦματικὰ ἐργάζεσθαι, ὁ ἀποβαλὼν Πνεῦμα ἅγιον; Διὰ τοῦτο καὶ ἀνανεοῦσθαι ὀφείλει ὁ πρὸς τῆν Ἐκκλεσίαν ἐρχόμενος, ἵνα ἔσω διὰ τῶν ἁγίων ἁγιασθῇ γέγραπται γὰρ, ὅτι ἅγιοι ἒσεσθε, καθῶς ἐγὼ ἄγιος εἰμι, λέγει Κύριος.
PL 3, 1085D洗礼を受けた者のために祈るのは、司教ではなく、冒瀆者、罪びとであるとすれば、どうしてそれがなされえようか。聖書はこう言っている。『神は罪びとの言うことを聞き入れないが、もし敬虔な者があり、神の御旨を行うならば、その者の言うことは聞き入れられる』と。我々は、聖なる教会を通して罪の赦しを理解する。自分自身が持たないものを、誰が与えることができようか。あるいは、聖なる霊を投げ捨てた者が、どうして霊的な業を行うことができようか。それゆえ、教会に来る者は新たにされなければならない。内なるところで、聖なる者たちを通して聖別されるためである。こう書かれているからである。『汝らは聖なる者となれ、私が聖なる者であるように』と主は言われる。
Acta 6.0.63
Ἵνα καὶ ὁ ἐπὶ πλάνης βουκοληθεὶς ἐν τῷ ἀληθεῖ καὶ ἐκκλησίαστικῷ βαπτίσματι καὶ αὐτὸ τοῦτο ἀποδύσηται, ὅς τις πρὸς Θεὸν ἐρχόμενος ἄνθρωπος καὶ ἱερέα ἐπιζητῶν ἐν πλάνῃ εὐρεθεὶς ἱεροσύλῳ προσέπεσε.
PL 3, 1085D誤りに惑わされた者も、真実で教会的な洗礼のうちで、この誤りそのものを脱ぎ捨てるためである。すなわち、神に近づき司教を求めながら、誤りのうちに見出されて冒瀆者のもとに落ちた人間のことである。
Acta 6.0.64
Δοκιμάζειν γάρ ἐστι τὸ τῶν αἱρετικῶν καὶ σχισματικῶν βάπτισμα, τὸ συνευδοκεῖν τοῖς ὑπ' ἐκείνων βεβαπτισμένοις.
PL 3, 1085D異端者や離教者の洗礼を是認するとは、彼らによって洗礼を授けられた者たちを是認することにほかならないからである。
Acta 6.0.65
Οὐ γὰρ δύναται ἐν μέρει ὑπερισχύνειν· εἰ ἠδυνήθη βαπτίσαι, ἴσχυσε καὶ ἃγιον Πνεῦμα δοῦναι· εἰ οὐκ ἠδυνήθη, ὅτι ἔξω ὢν Πνεῦμα ἅγιον οὐκ ἔχει, οὐ δύναται τὸ ἐρχόμενον βαπτίσαι ἑνὸς ὂντος τοῦ βαπτίσματος, καὶ ἑνὸς ὄντος τοῦ ἁγίου Πνεύματος, καὶ μιᾶς Ἐκκλεσίας ὑπὸ Χριστοῦ τοῦ Κυρίου ἡμῶν ἐπάνω Πέτρου τοῦ ἀποστόλου ἀρχῆθεν λέγοντος ἑνότητος τεθεμελιωμένης.
PL 3, 1085Dなぜなら、部分において力を持つことはできないからである。すなわち、洗礼を授ける力があったならば、聖なる霊を与える力もあったであろう。もし力がなかったなら、すなわち教会の外にあって聖なる霊を持たないのであれば、その者はやって来る者に洗礼を授けることもできない。洗礼は一つ、聖なる霊も一つ、教会も一つであって、この一致は、我々の主キリストが言われたとおり、初めから使徒ペトロの上に据えられて基礎づけられたものである。
Acta 6.0.66
Καὶ διὰ τοῦτο τὰ ὑπ' αὐτῶν γινομένα ψευδῆ καὶ κενὰ ὑπάρχοντα πάντα ἐστὶν ἀδόκιμα. Οὑδέ γὰρ δύναται δεκτὸν καὶ αἰνετὸν εἶναι παρὰ Θεῷ τῶν ὑπ' ἐκείνων γινομένην, οὓς ὁ Κύριος πολεμίους καὶ ἀντιπάλους αὐτοῦ λέγει ἐν τοῖς Εὐαγγελίοις· Ὁ μὴ ὢν μετ' ἐμοῦ κατ' ἐμοῦ ἐστι, καὶ ὁ μὴ συνάγων μετ' ἐμοῦ σκορπίζει.
PL 3, 1085Dそれゆえ、彼らによってなされたことは、偽りであり空しいものであるがゆえに、すべて退けられるべきものである。主が福音書のうちで敵、また反対者と呼ばれる者たちによってなされたことが、神に喜ばれ受け入れられることなど、決してあり得ないからである。『私と共にいない者は私に敵対する者であり、私と共に集めない者は散らす者である。』
Acta 6.0.67
Καὶ ὁ μακάριος ἀπόστολος Ἰωάννης ἐντολὰς Κυρίου τηρῶν, ἐν τῇ Ἐπιστολῇ προέγραψεν· Ἠκούσατε ὅτι ὁ Αντίχριστος ἒρχεται, καὶ νῦν δὲ Αντίχριστοι πολλοὶ γεγόνασιν, ὅθεν γινώσκομεν ὅτι ἐσχάτη ὥρα ἐστίν. Ἐξ ἡμῶν ἦλθον, ἀλλ' οὐκ ἦσαν μεθ' ἡμῶν.
PL 3, 1085Dさらに、祝された使徒ヨハネも、主の命令を守って、その書簡にこう記している。『汝らは、反キリストが来ると聞いた。そして今や、多くの反キリストが現れている。それによって、我々はこれが終わりの時であることを知る。彼らは我々のうちから出て行ったが、我々と共にいる者ではなかった。』
Acta 6.0.68
Ὁθεν καὶ ἡμεῖς συνιέναι ὀφείλομεν καὶ νοεῖν ὡς οἱ ἐχθροι Κυρίου καὶ οἱ Αντίχριστοι ὠνομασμένοι δυνατοὶ οὐκ εἶεν χάριν δοῦναι τοῦ Κυρίου καὶ διὰ τοῦτο ἡμεῖς τῷ Κυρίῷ ἲοντες, καὶ ἑνότητα Κυρίου πραττοῦντες, καὶ κατὰ τὴν ἀξίαν αὐτοῦ χορηγούμενοι, τὴν ἱερατέιαν αὐτοῦ ἐν τῇ Ἐκκλεσίᾳ λειτουργοῦντες, ὅσα οἱ αντικείμενοι αὐτῷ, τουτέστι πολέμιοι καὶ Αντίχριστοι ποιοῦσιν, ἀποδοκιμάσαι, καὶ ἀποποιῆσαι καὶ ἀποῤῥίψαι, καὶ ὡς βέβηλα ἔχειν ὀφείλομεν, καὶ τοῖς ἀπὸ πλάνης καὶ στρεβλότητος ἐρχομένοις ἐπὶ γνώσει τῆς ἀληθινῆς καὶ ἐκκλησιαστικῆς πίστεως δοῦναι καθόλουθείας δυνάμεως μυστήριον, ἑνότητός τε καὶ πίστεως καὶ ἀληθείας.
PL 3, 1085Dそれゆえ我々もまた、次のことを理解し考えなければならない。すなわち、主の敵であり反キリストと呼ばれる者たちが主の恩寵を与えることができないのであれば、主と共にあって主の一致を保ち、その尊厳にふさわしく仕えて、教会において主の司教職を執り行う我々は、主に敵対する者たち、すなわち敵であり反キリストである者たちがなすことをすべて斥け、取り除き、投げ捨てて、涜聖のものとして扱わねばならない。そして、誤りと曲がった道から来る者たちには、真実で教会的な信仰の認識、すなわち神的な力の秘義、一致、信仰、真理の認識を、余すところなく与えなければならない。
Acta 6.0.69
ΖΩΝΑΡΑΣ. Αὕτη ἡ ἐπιστολὴ, καθάπαξ τοὺς ὑπὸ αἱρετικῶν ἢ σχισματικῶν βαπτιστέντας προσερχομένους τῇ καθολικῇ Ἐκκλεσίᾳ βαπτίζεσθαι διατάττεται καὶ ἐν διαφόρων ἐνθυμημάτων, καὶ ἐπιχειρημάτων καὶ ῥητῶν γραφικῶν τὸν οἰκεῖον λόγον κατωσκευάζει.
PL 3, 1085Dゾナラス。この書簡は、異端者あるいは離教者によって洗礼を授けられた者が、カトリック教会に立ち帰るならば、一律に洗礼を授けられるべきことを命じており、様々な推論や論拠、そして聖書の言葉によって、みずからの主張を確証している。
Acta 6.0.70
Ἡδὲ δευτέρα οἰκουμενικὴ σύνοδος ἐν κανόνι αὐτῆς ἑβδόμῳ οὐ παντας ἐξ αἱρέσεων ἐπιστρέφοντας, ἂνωθεν κελεύει βαπτίζεσθαι, ἀλλ' ἀπαριθμεῖ τινας μὲν δεῖν δέχεσθαι διδόντας λιβέλλους, καὶ ἀναθεματίζοντας τἰνα τε οἰκείαν αἵρεσιν ἔκαστον, καὶ πᾶσαν μὴ φρονοῦσαν, ὡς ἡ ἁγία τοῦ Θεοῦ καθολικὴ καὶ ἀποσολικὴ Ἐκκλεσία φρονεῖ. σφρανιζομένους ἤτοι χριομένους τῷ ἀγίῳ μύρῳ· τοὺς δὲ λοιποὺς πάντας, ὧν τινας καὶ ὀνομαστὶ καταλέγει, βαπτίζεσθαι ὁρίζεται, δεχομένους ὡς Ἕλληνας.
PL 3, 1085D第二全地公会議は、その第七規定において、異端から移ってくる者すべてが改めて洗礼を受けるべきだとは定めておらず、むしろ、ある者たちについては、誓約書を提出し、各自が自らの異端と、聖なる公同にして使徒的な神の教会が奉じるようには奉じないすべての異端とを呪詛するならば、しるしを付けられること、すなわち聖なる香油によって塗油されることをもって迎え入れられるべきであると数え上げ、他の者たち――そのうち幾人かは名指しで挙げられている――についてはすべて、洗礼を授けられ、ギリシア人として迎え入れられるべきことを定めている。
Acta 6.0.71
Ὃς δῆτα κανὼν καὶ ἐν τῷ ἰδίῳ τόπω ἐξήγηται· Ὅθεν φαίνεται, ὅτι οὐκ ἐδέχθη παρὰ τῶν μετέπειτα πατέρων ἁγίων ἡ διαταγὴ αὔτη.
PL 3, 1085Dこの規定については、しかるべき箇所ですでに解説されている。そこから明らかなように、〔キプリアヌスの〕この定めは、後代の聖なる教父たちに受け入れられなかったのである。
Acta 6.0.72
Ἐναντία τοίνυν ἐν τούτῷ τῷ κεφαλαίῳ τῶν δύο συνόδων εἰσαγουσῶν τὰ τῆς δευτέρας κρατεῖ συνόδου, ὅτι τε μεταγενεστέρα ἐστὶ, καὶ ὅτι οἰκουμενικὴ, ἐν ᾗ πάντως ἐκ πάντων τῶν πατριαρχικῶν θρόνων συνῆσαν, ἢ οἱ πατριάρχαι αὐτοὶ, ἢ τοπηρήται, ὅτι δὲ οὐκ ἐδέχθη ὸ παρὼν κανὼν παρὰ πάντων τῶν ἁγίων πατέρων, δηλοῦται καὶ ἐκ τοῦ δευτέρου κανόνος τῆς ἐν τῷ Τρούλλῳ γενομένης συνόδου λεγομένης ἕκτης· ἀπορίθμησιν γὰρ ἐν αὐτῷ οἱ συνόδου ἅγιοι πατέρες ἐκείνης ποιούμενοι τῶν ὀφειλόντων κρατεῖν κανόνων, ταῦτα περὶ τοῦ κανόνος τούτου ῥήμασιν αὐτοῖς διεξιᾶσιν.
PL 3, 1085Dしたがって、この項目について二つの教会会議が互いに相反する決定を下している以上、第二の会議の定めが優る。なぜなら、それはより後のものであり、かつ全地公会議であって、そこにはすべての総主教座から、総主教たち自身か、あるいはその代理者たちが必ず出席していたからである。また、この規定がすべての聖なる教父たちに受け入れられたわけではないことは、トゥルロで開催され、第六と呼ばれる教会会議の第二規定からも示される。なぜなら、そこで聖なる教父たちは、権威が確定されるべき規定を一つ一つ列挙したうえで、この規定について、まさに次のとおりの言葉で述べているからである。
Acta 6.0.73
Ἔτι μὴν καὶ τὸν ὑπὸ Κυπριανοῦ τοῦ γενομένου ἀρχιεπισκόπου τῆς Ἀφρῶν χώρας, καὶ μάρτυρος, καὶ τῆς κατ' αὐτὸν συνόδου ἐκτεθέντα κανόνα, ὃς ἐν τοῖς τῶν προέδρων τόποις καὶ μόνοις κατὰ τὸ παραδοθὲν αὐτοῖς ἔθος ἐκράτησεν.
PL 3, 1086Aさらに、アフリカ地方の大司教であり殉教者であったキプリアヌスと、彼のもとにあった教会会議とが定めた規定についても、それはただ彼らの司教たちの管轄地においてのみ、彼らに伝えられた慣習に従って守られてきたのである。
Acta 6.0.74
Ἐντεῦθεν οὖν δέικνυται, ὅτι καὶ ἀρχῆθεν, οὐ παρὰ πᾶσιν ἦν ἐνεργῶν ὁ κανών. Ταῦτα μὲν οὖν τὰ τῆς ἐπιστολῆς· Αἱ δὲ ἐν τῇ κοινῇ διασκέψει δοθεῖσαι γνῶμαι παρ' ἐκάστου τῶν ἐν τῇ συνόδῳ συνειλεγμένων, ἔχουσιν οὕτως κατ' ἐπιτομήν.
PL 3, 1086Aしたがって、この一節から、この規定が最初の時代にあってもすべての者のもとで通用していたわけではなかったことが、容易に知られるのである。以上が、この書簡についてである。さて、会議に集まった者たちがそれぞれ共同の審議のうちで述べた意見は、要約すれば次のとおりである。
Acta 6.0.75
Κυπριανὸς εἶπεν· Ἠκούσατε, ἀγαπητοὶ συνεπίσκοποι, τί μοι ἒγραψεν Ἰοβιανὸς, ὁ συνεπίσκοπος ἡμῶν, συμβουλὴν παρὰ τῆς μετριότητός μου βουλόμενος λαβεῖν περὶ τοῦ ἀνοσίου καὶ ἀνόμου βαπτίσματος τῶν αἱρετικῶν, καὶ τί ἐγὼ αὐτῷ ἀντέγραψα δογματίζων, ὃ ἅπαξ καὶ δεύτερον καὶ πολλάκις ἐκρίναμεν, τοὺς αἱρετικοὺς προσερχομένους τῇ Ἐκκλησίᾳ βαπτίσματι βαπτίζεσθαι δεῖν, καὶ ἁγιάζεσθαι.
PL 3, 1086Aキプリアヌスは言った——最愛の同僚司教たちよ、我々の同僚司教ヨウィアヌスが、異端者たちの神聖ならず不法な洗礼について、私のような取るに足りない者から助言を得ようとして何を書き送ったか、また私が彼に対し、我々が一度ならず二度も、幾度も判断してきたところに従い、教会に来る異端者は洗礼によって洗礼を授けられ、聖化されねばならないと教えとして書き返したかを、諸君は聞いた。
Acta 6.0.76
Ἔπειτα δὲ ἀνεγνώσθη ὑμῖν καὶ ἄλλα γράμματα Ἰοβιανοῦ, δι' ὧν κατὰ τὸ αὐτοῦ εὐσεβὲς ἀντίγραμμα οὐ μόνον ἡμῖν συνευδόκησεν, ἀλλὰ καὶ τῇ ἐπιγνώσει τῆς ἀλήθειας χάριν ὡμολόγησεν.
PL 3, 1086Bそのあと、諸君にはヨウィアヌスのもう一つの書簡も読み聞かされた。彼はその敬虔な返書によって、我々に同意しただけでなく、真理を認識するに至ったことについて感謝を表したのである。
Acta 6.0.77
Ὑπόλοιπον οὖν περὶ αὐτοῦ ἕκαστος ὑμῶν φρονεῖ, είπεῖν μηδενὸς ἀφ' ὑμῶν ἐν τούτῳ κρινομένου, μηδὲ εἰ ἐναντία φρονοίη, καὶ ἀκοινωνήτου γινομένου.
PL 3, 1086C残るところは、諸君の一人ひとりが、この事柄についてどう考えるかを述べることである。この件で諸君のうち誰かが裁かれることはなく、たとえ反対の考えを抱く者があっても、交わりを断たれることはない。
Acta 6.0.78
Οὔτε γάρ τις ἐπίσκοπον ἑαυτὸν καθίστησιν, οὐδὲ τυραννικῇ αὐθαδείᾳ εἰς ἀνάγκην τοῦ ἕπεσθαι αὐτῷ τοὺς συνεπισκόπους βιάζεται, ὁπότε εἷς ἕκαστος ἐπίσκοπος ἐξουσίαν ἔχει πράττειν ἐλευθερίως, ἃ φρονεῖ· ὡς γὰρ αὐτὸς ἄλλον κρῖναι οὐ δύναται, οὕτως οὐδὲ ὑπὸ ἄλλου κριθῆναι.
PL 3, 1086Cというのも、我々のうち誰も自らを司教として立てる〔ラテン語版では「司教たちの司教」とあるが、このギリシア語本文には「司教たちの」に当たる語がない〕ことはなく、また僭主的な高慢さによって、同僚司教たちに自らへ従うことを強いることもないからである。各々の司教は、自らが考えるところを自由に行う権能を有しているのであって、自分が他人を裁くことができないのと同じく、他人によって裁かれることもないのである。
Acta 6.0.79
Περιμένομεν γὰρ πάντες τὴν τοῦ Κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ κρίσιν, ὃς μόνος ἐξουσίαν ἔχει ἐπίσκοπον καθιϛᾷν ἐν τῇ αὐτοῦ Ἐκκλησίᾳ, καὶ ἑνὸς ἑκάστου τὴν πρᾶξιν ἐξετάζειν καὶ δοκιμάζειν.
PL 3, 1086C我々はみな、我々の主イエス・キリストの裁きを待っているのである。主こそ、ただひとり、ご自分の教会において司教を立てる権能を持ち、一人ひとりの行いを吟味し、判定する権能を持つ方である。
Acta 6.0.80
Καικίλλιὸς Λιβεράριος εἶπεν· Ἓν βάπτισμα ἐν μόνῃ τῇ Ἐκκλησίᾳ οἶδα, καὶ ἐκτὸς τῆς Ἐκκλησίας, οὐδαμοῦ. Ἔνθα γὰρ ἐστὶ τὸ ἓν βάπτισμα, ὄντως καὶ ἐλπὶς ἀληθείας ἐστὶ, καὶ πίστις. Οὕτω γὰρ γέγραπται, μία πίστις, ἓν βάπτισμα.
PL 3, 1086Cビルタのカエキリウスは言った——私は、洗礼はただ一つ教会のうちにのみあると知っており、教会の外にはどこにもないと知っている。なぜなら、この一つの洗礼があるところにこそ、真に真理の希望があり、また信仰があるからである。実に、こう書かれている。『信仰は一つ、洗礼は一つである』と。
Acta 6.0.81
Οὐ γὰρ τοῖς αἱρετικοῖς, παρ' οἷς οὐδεμία πίστις καὶ ἐλπὶς, ὅπου πάντα ψευδῆ, ὅπου ἐξορκίζει δαιμονιζόμενος, μυστήριον ἐρωτᾷ, οὗ τὸ στόμα λοιμώδη καὶ ἰώδη φτέγγεται· πίστιν δὲ δίδωσιν ἄπιστος, ἄφεσιν ἁμαρτιῶν παρέχει ἁμαρτωλὸς, καὶ εἰς ὂνομα Χριστοῦ βαπτίζει Αντίχριστος, ὑπισχνεῖται ζωὴν νεκρὸς, εἰρήνην δίδωσιν εἰρήνης ἀλλότριος, Θεον ἐπικαλεῖται βλάσφημος, ἱερατείᾳ κέχρηται ἀσεβὴς, θυσιαστήριον πρωτίθησιν ἱερόσυλος, Θοῷ θυσίαν προσφέρει ὁ διαβόλῳ ὑπηρετῶν.
PL 3, 1086D異端者たちのもとには、いかなる信仰も希望もなく、そこではすべてが偽りである。そこでは悪霊に憑かれた者が悪霊祓いを行い、その口が疫病と毒気とを吐く者が秘跡について問う。不信仰な者が信仰を与え、罪ある者が罪の赦しを授け、反キリストがキリストの名において洗礼を授け、死せる者が生命を約束し、和解なき者が和解を与え、冒瀆する者が神を呼び求め、不敬虔な者が司教の務めを行い、冒瀆者が祭壇を据え、悪魔に仕える者が神に生贄を捧げる。
Acta 6.0.82
Οἱ αὐτοῖς συνηγοροῦντες εἰπάτωσαν ταῦτα πάντα ψεῦδῆ εἶναι περὶ τῶν αἱρετικῶν. Ἰδοὺ τισιν ἀναγκάζεται ἡ Ἐκκλεσία συνευδοκεῖν, ἵνα χωρὶς βαπτίσματος καὶ ἀφέσεως ἁμαρτιῶν τοιούτοις συγκοινωνήσῃ.
PL 3, 1086D彼らのために弁護する者たちは、異端者たちについて述べたこれらすべてのことが偽りであると言うがよい。見よ、教会がいかなる者たちに同意するよう強いられ、洗礼も罪の赦しもないままに、そのような者たちと交わりを持たされているかを。
Acta 6.0.83
Ὅθεν, ἀδελφοὶ, φεύγειν, καὶ εκκλίνειν ὀφείλομεν, καὶ χωρίζειν ἑαυτοὺς ἀπὸ τοιούτων πλημμελημάτων, καὶ ἓν βάπτισμα κατέχειν τὸ μόνον ἐν τῇ Ἐκκλησίᾳ τοῦ Θεοῦ δεδωρημένον. Πρίαμος ἀπὸ Μαστρίπης εἶπε· Δογματίζω πάντα ἄνθρωπον ἀπὸ αἱρέσεως ἐρχόμενον, δεῖν βαπτίζεσθαι.
PL 3, 1088Aそれゆえ兄弟たちよ、我々はこの事を避け、逃れ、これほど大きな過ちから身を離し、神の教会のうちにのみ与えられた唯一の洗礼を守らなければならない。 ミスギルパのプリムスは言った——異端から来るすべての人間は、洗礼を受けねばならないと私は考える。
Acta 6.0.84
Μάτην γὰρ αὐτὸν ἐκεῖ βεβαπτίσθαι, μὴ ὄντος, εἰ μὴ ἑνὸς βαπτίσματος, ἐν τῇ Ἐκκλησίᾳ μόνῃ, ἐπεὶ καὶ ὁ Θεὸς εἷς, καὶ βάπτισμα ἓν, καὶ ἐκκλησία μία, ἐν ᾗ τὸ βάπτισμα καὶ ὁ ἁγιασμὸς καὶ ὅσα ἄλλα εἰς σωτηρίαν καὶ εἰς ζωὴν αἰώνιον ἐπιτελεῖται.
PL 3, 1088A彼がそこで洗礼を受けたとしても、それは空しいことである。洗礼は教会のうちにのみ唯一のものとして存在するのだから。すなわち神は唯一、洗礼は一つ、教会は一つであり、そのうちにこそ洗礼と聖化、そして救いと永遠の生命のために成し遂げられるその他すべてのことが行われるのである。
Acta 6.0.85
Τὰ γὰρ ἒτω τῆς Ἐκκλησίας γινόμενα, εἰς οὐδὲν τούτων ἀφεικνεῖται. Πολύκαρπος Αδραμέντου εἶπεν· Οἱ τὸ τῶν αἱρετικῶν βάπτισμα δοκιμάζοντες, τὸ ἡμέτερον ἀδόκιμον ποιοῦσι.
PL 3, 1088A教会の外でなされることは、これらのいずれにも到達しない。 アドルメトゥムのポリュカルプスは言った——異端者たちの洗礼を是認する者たちは、我々の洗礼を無に帰せしめるのである。
Acta 6.0.86
Νουσάτος ἀπὸ Θαννού βασιλέως εἶπε· Πᾶσαι αἱ γραφαὶ μαρτυροῦσι περὶ ἑνὸς καὶ μόνου τοῦ ἐν τῇ Ἐκκλεσίᾳ βαπτίσματος σωτηρίου, ὀφείλομεν τὴν ἡμετέραν πίστιν ὁμολογῆσαι, ἵνα τοὺς αἱρετικοὺς καὶ σχισματικοὺς προσερχομένους τῇ Ἐκκλησίᾳ μετὰ τὸ ψευδὲς ἐκείνων βάπτισμα τῷ ἀληθεῖ βαπτίσωμεν.
PL 3, 1088Aタムガディのノヴァトゥス〔底本は Νουσάτος ἀπὸ Θαννού βασιλέως。人名・地名が崩れているらしく、ラテン語版の Novatus a Thamugade と取った〕は言った——すべての聖典は、教会のうちにある唯一の救いの洗礼について証ししている。それゆえ我々は自らの信仰を告白し、異端者と離教者とが教会に来るとき、彼らの偽りの洗礼のあとに、真実の洗礼によって洗礼を授けねばならない。
Acta 6.0.87
Καὶ διὰ τοῦτο ἐγὼ τοὺς ἐκεῖθεν ἐλθόντας πάντας ἐβάπτισα, καὶ τοὺς ἀπὸ κλήρου αὐτῶν λαϊκοὺς ἒστησα.
PL 3, 1088Bそれゆえ私は、そこから来た者たちすべてに洗礼を授け、彼らの聖職者であった者たちを平信徒として立てたのである。
Acta 6.0.88
Νεμεσιανὸς ἀπὸ Θουβούνων εἶπε· Βάπτισμα ὃ δίδωσιν αἱρετικὸς καὶ σχισματικὸς μὴ εἶναι ἀληθὲς πᾶσαι αἱ γραφαὶ μαρτυροῦσιν, ἐπεὶ αὐτοί προεστῶτες αὐτῶν ψευδόχριστοί εἰσι καὶ ψευδοπροφῆται.
PL 3, 1088Bトゥブナエのネメシアヌスは言った——異端者と離教者が授ける洗礼が真実でないことは、すべての聖典が証ししている。なぜなら、彼らの首領たち自身が、偽キリストであり偽預言者であるからである。
Acta 6.0.89
Ἰανουάριος ἀπὸ Λαβῆς εἶπε· Κατὰ τὰ προστάγματα τῶν ἁγίων Γραφῶν κρίνω δεῖν πάντας τοὺς αἱρετικοὺς βαπτίζεσθαι, καὶ οὕτως εἰς τὴν ἁγίαν Ἐκκλησίαν προσδέχεσθαι.
PL 3, 1088Bランベーズのヤヌアリウス〔底本の綴りは Λαβῆς。ラテン語版の Lambese に当たると取った〕は言った——聖なる聖典の命ずるところに従い、私はすべての異端者が洗礼を受けねばならず、そうしてこそ聖なる教会へ迎え入れられるべきであると判断する。
Acta 6.0.90
Λούκιος ἀπὸ Γαστρογαλβῆς εἶπεν· Ὁ Κύριος ἐν τῷ Εὐαγγελίῳ φησὶν, Ὑμεῖς ἐστε τὸ ἅλας τῆς γῆς, ἐὰν δὲ τὸ ἅλας μωρανθῇ ἐν τίνι ἁλισθήσεται; ὁπότε οὖν σαφές ἐστι τοὺς αἱρετικοὺς τουτέστιν ἐχθροὺς τοῦ Θεοῦ, μὴ δεῖν δύνασθαι ζοποιῆσαί τινα πνευματικῇ ὁμολογίᾳ μωραθέντας αὐτοὺς καὶ ἔξω ὄντας τῆς Ἐκκλησίας, ἁγίῳ βαπτίσματι βαπτίζειν αὐτοὺς ἐρχομένους ὀφείλομεν.
PL 3, 1088Bカストラ・ガルバエのルキウスは言った——主は福音書のうちで、『汝らは地の塩である。もし塩がその味を失うならば、何によって塩気を取り戻されようか』と言われた。したがって、異端者たち、すなわち神の敵である者たちは、霊的な告白によって誰かを生かすことができないほどに味を失い、教会の外にある者たちであることは明らかである。それゆえ、彼らが〔教会に〕来るとき、我々は聖なる洗礼によって彼らに洗礼を授けねばならない。
Acta 6.0.91
Κρίσης ἀπὸ Κρήτης εἶπε· Καὶ αὐτὸς τοὺς αἱρετεκοὺς καὶ σχισματικοὺς, ὁπόταν εἰς τὴν Ἐκκλησίαν τὴν καθολικὴν ἒλθωσι, μὴ πρότερον δεχθῆναι, πρὶν ἐξορκισθῶσι καὶ βαπτισθῶσι, χωρὶς ἐκείνων τῶν τῇ Ἐκκλησίᾳ βαπτισθέντων καὶ ἀποστάντων.
PL 3, 1088Cキルタのクレスケンス〔底本は Κρίσης ἀπὸ Κρήτης。ラテン語版の Crescens a Cirta が崩れた形と取った〕は言った——私自身もまた、異端者と離教者とがカトリック教会に来るときには、悪霊祓いを受け、洗礼を授けられるのでなければ、まず受け入れられるべきではないと考える。ただし、すでに教会において洗礼を受けていた者たちで、離反した者たちは除かれる。
Acta 6.0.92
Οὖτοι γὰρ ὀφείλουσι μετανοήσαντες χειροθεσίας μόνης τυχεῖν. Νικομήδης ἀπὸ Σεργομέων εἶπεν· Ἡ ἐμὴ ἀπόφασις αὕτη ἐστίν· ἵνα οἱ αἱρετικοὶ τῇ Ἐκκλησίᾳ προσερχόμενοι βαπτισθῶσιν, ἐπεὶ μηδεμίαν ἒξω ἄφεσιν ἁμαρτιῶν εἰληρασιν ὑπὸ τῶν αιῥετικῶν βαπτισθέντες.
PL 3, 1088Cこの者たちは、悔い改めたのち、ただ按手のみを受けるべきである。 セゲルミスのニコメデス〔底本の綴りは Σεργομέων。ラテン語版の Segermis に当たると取った〕は言った——私の意見はこうである。教会に来る異端者たちは洗礼を受けねばならない。なぜなら、彼らは異端者たちによって洗礼を受けた際、外にあっては何ら罪の赦しを得ていないからである。
Acta 6.0.93
Σεκουνδιανὸς ἀπὸ Καρινδίας εἶπεν· Ὅτι ὁ Κύριος ἡμῶν Ἱησοῦς Χριστὸς λέγει· Ὁ μὴ ὣν μετ' ἑμοῦ, κατ' ἑμοῦ ἐστι. Καὶ Ἰωάννης ὁ ἀπόστολος τοὺς ἐξερχομένους τῆς Ἐκκλησίας Αντιχρίστους ὀνομάζει.
PL 3, 1090Aケディアスのセクンディヌス〔底本は Σεκουνδιανὸς ἀπὸ Καρινδίας。ラテン語版の Secundinus a Cedias に当たると取った〕は言った——我々の主イエス・キリストは、『私と共にいない者は、私に敵対する者である』と言われる。また使徒ヨハネは、教会から出て行く者たちを反キリストと呼んでいる。
Acta 6.0.94
Αδύνατον γὰρ ἐστιν αὐτοὺς ὑπηρετῆσαι χάριτι Θεοῦ, καὶ σωτηρίῳ βαπτίσματι· καὶ διὰ τοῦτο κρίνω τοὺς τῇ Ἐκκλησίᾳ προσελθόντας βαπτισθῆναι παρ' ἡμῶν.
PL 3, 1090A彼らが神の恩寵と救いをもたらす洗礼とに仕えることは不可能だからである。それゆえ、私は、教会に近づいて来る者たちは我々によって洗礼を受けるべきであると考える。
Acta 6.0.95
Φίληξ ἀπὸ Γαμετῶν εἶπεν· Ὡς τυφλὸς τυφλὸν ὁδηγῶν ἅμα εἰς βόθρον ἐμπίπτουσιν, οὕτω καὶ αἱρετικὸς αἱρετικὸν βαπτίζων τῷ βαπτισμένῳ συναποθνῆσκει. Καὶ διὰ τοῦτο παρ' ἡμῖν τὸν αἱρετικὸν βαπτισθῆναι δεῖ, ἵνα μὴ ἡμεῖς οἱ ζῶντες νεκροῖς κοινωνήσωμεν.
PL 3, 1090Aガメトンのフェリクス〔底本の綴りは Γαμετῶν。ラテン語版の並行箇所は Felix a Bagai で、地名の形が大きく異なる〕は言った。盲人が盲人を導けば、二人とも共に穴に落ちるように、異端者が異端者に洗礼を授ければ、洗礼を受けた者と共に死ぬ。それゆえ、異端者は我々のもとで洗礼を受けなければならない。生きている我々が死んだ者たちと交わることのないようにするためである。
Acta 6.0.96
Σουκέντιος ἀπὸ Αβιργεμανικιανῆς εἶπεν· Αἱρετικοῖς ἢ οὑδὲν ἔξεστιν, ἢ πάντα· εἰ δύνανται βαπτίσαι, δύνανται καὶ Πνεῦμα ἅγιον δοῦναι· ἐπεὶ δὲ μὴ ἔχουσιν, οὐδὲ πνευματικῶς βαπτίζουσι· καὶ διὰ τοῦτο κρίνω δεῖν τοὺς αἱρετικοὺς βαπτίζεσθαι.
PL 3, 1090Bアビルゲルマニキアナのスケンティオスは言った。異端者たちには、何も許されていないか、あるいはすべてが許されているかのいずれかである。もし彼らが洗礼を授けることができるなら、聖なる霊を与えることもできるはずである。しかし彼らはそれを持っていないのだから、霊的に洗礼を授けることもできない。それゆえ、私は異端者たちが洗礼を受けるべきだと考える。
Acta 6.0.97
Φουρτουάτος ἀπὸ Θουκχαβὼρ εἶπεν· Οἱ ἔξω τῆς Ἐκκλησίας ὄντες, καὶ ἐναντίοι τῷ Χριστῷ, ὡς τὰ πρόβατα, καὶ τὴν ἀγέλην αὐτοῦ σκορπίζοντες, βαπτίζειν ἔξω οὐ δύνανται.
PL 3, 1090Bトゥクカボルのフォルトゥアトスは言った。教会の外にいて、キリストに逆らい、彼の群れである羊たちを追い散らす者たちは、外で洗礼を授けることができない。
Acta 6.0.98
Θήδατος ἀπὸ Θουρβῶν εἶπε· Πάσῃ δυνάμει ἀγωνιστέον, ἵνα μὴ ὁ τὴν τῶν αἱρετικῶν πλάνην ἁφεὶς, τὸ μόνον τῆν Ἐκκλησίας βάπτισμα διστάσῃ λαβεῖν, ᾧ τις μὴ βαπτισθεὶς, ἀλλοτριοῦται τῆς τῶν οὐρανῶν βασιλέιας.
PL 3, 1090Bトゥルボンのテダトスは言った。あらゆる力を尽くして努めなければならない。異端者たちの迷いを離れた者が、教会だけが持つ唯一の洗礼を受けることをためらうことのないようにである。この洗礼を受けない者は、天の国から疎外されるのである。
Acta 6.0.99
Προβατιανὸς ἀπὸ Σοφετίης εἶπεν· Εἰ ἀπὸ Θεοῦ ἡ αἵρεσίς ἐστιν, ἔξει αἱρετικὸς καὶ δωρεὰν Θεοῦ.
PL 3, 1090Cソフェティアのプロバティアヌスは言った。もし異端が神に由来するのであれば、異端者もまた神の賜物を持つことになろう。
Acta 6.0.100
Εἰ δὲ μὴ ἐστιν ἀπὸ Θεοῦ, πῶς δύναται αὐτὸς ἔχειν τὴν χάριν τοῦ Θεοῦ καὶ ἄλλῳ διδόναι; Μανούαλος ἀπὸ Γέρβης εἶπε· Τοῦ Κυρίου λέγοντος, Βαπτίσατε πάντα τὰ ἔθνη εἰς τὸ ὄνομα τοῦ Παπρὸς καὶ τοῦ Υὶοῦ καὶ τοῦ ἁγίου Πνεύματος, οἴδαμεν σαφῶς τοὺς αἱρετικοὺς, μήτε Πατέρα ἒχειν, μήτε Υἱὸν, μήτε ἃγίον Πνεῦμα· δεῖ οὖν ἐρχομένους εἰς τὴν Ἐκκλησίαν βαπτίζειν, ἵνα ἀναγεννηθῶσιν.
PL 3, 1090Cしかし、もし神に由来しないのであれば、彼自身がどうして神の恩寵を持ち、それを他の者に与えることができようか。ゲルバのマヌアロスは言った。主が「あらゆる国民に、父と子と聖なる霊との名において洗礼を授けよ」と言われたことにより、我々は、異端者たちが父も子も聖なる霊も持たないことを明らかに知っている。それゆえ、教会に来る者たちには、彼らが再び生まれるために、洗礼を授けなければならない。
Acta 6.0.101
Πολιτιανὸς ἀπὸ Μίλεως εἶπεν· Ορθόν ἐστι τὸν ἀπὸ αἱρέσεως ἐρχόμενον ἐν τῇ Ἐκκλησίᾳ βαπτίζεσθαι. Θέογνις ἀπὸ Ιππῶνος ῥηγίου εἶπεν· Ακολούθως τῷ μυστηρίῳ τοῦ Θεοῦ, καὶ τῆς οὐρανίου χάριτος ἣν εἰλήφαμην, βάπτισμα, ὅ εστιν ἐν τῇ ἁγίᾳ Ἐκκλησίᾳ, οἲδαμεν.
PL 3, 1090Cミレウスのポリティアヌスは言った。異端から来る者が教会において洗礼を受けるのは正しいことである。イッポン・レギオスのテオグニスは言った。神と、我々が受けた天の恩寵との秘義に従って、聖なる教会にあるこの洗礼を、我々は認めている。
Acta 6.0.102
Διατίους ὁ Σεάδης εἶπεν· Ἡμεῖς ὃ ἐφ' ἡμῖν ἐστιν, αἱρετικοῖς οῦ κοινωνοῦμεν, ἐὰν μὴ ἐν τῇ Ἐκκλησίᾳ βαπτισθῇ, καὶ ἄφεσιν ἀμαρτιῶν λάβη.
PL 3, 1090Dセアデスのディアティウスは言った。我々に懸かる限りにおいて、我々は異端者と交わらない。ただし、その者が教会において洗礼を受け、罪の赦しを得た場合は別である。
Acta 6.0.103
Προβάτος ἀπὸ Ζοφιστοῦ εἶπεν· Ὁ δοκιμάζων παρὰ τοῖς αἱρετικοῖς βάπτισμα εἶναι, τί ἄλλο, ἢ τοῖς αἱρετικοῖς κοινωνεῖ; Ορτησιανὸς ἀπὸ Λαβούρνης εἶπε. Καὶ ἡμεῖς ἓν βάπτισμα, ὅπερ ἐν τῇ Ἐκκλησίᾳ οἴδαμεν, τοῦτο τῇ Ἐκκλησίᾳ εκδικοῦμεν.
PL 3, 1090Dゾフィストゥのプロバトス〔底本の座名 Ζοφιστοῦ はラテン語版の Sufibus と形が異なり、崩れているらしい〕は言った。異端者たちのもとに洗礼があると認める者は、異端者たちと交わっている以外の何であろうか。ラボウルネのオルテシアヌス〔底本の座名 Λαβούρνης はラテン語版の Laribus と形が異なる〕は言った。我々もまた、教会にあると我々が知っている唯一の洗礼、これを教会に帰属するものとして守る。
Acta 6.0.104
Κάσιος ἀπὸ Κομαζῶν εἶπεν· Ἐπεὶ δύο βαπτίσματα εἶναι οὐ δύναται, ὁ συγχωρῶν τοῖς αἱρετικοῖς βάπτισμα, ἑαυτὸν τοῦ βαπτίσματος ἀποστερει· διὸ ἐπικυρῶ αἱρετικοὺς βαπτίζειν δεῖν, ὅταν πρὸς τὴν Ἐκκλησίαν ἒρχωνται, χωρὶς τῶν τῆς Ἐκκλησίας τῶν πιστῶν χωρισθέντων, καὶ ἑαυτοὺς τῷ σκότει τῆς αἱρέσεως προδόντων, οὓς δεῖ ἐπανελθόντας, μόνῃ τῇ χειροθεσίᾳ προσλαβέσθαι.
PL 3, 1090Dコマゾンのカシオス〔底本の綴りは Κομαζῶν。ラテン語版の Macomades の頭音が落ちた形らしい〕は言った。二つの洗礼というものはあり得ないのだから、異端者たちに洗礼を認める者は、自分自身から洗礼を奪うことになる。それゆえ私は、異端者たちが教会に来るときには洗礼を授けられるべきであると承認する。ただし、教会の信徒でありながら離れ、みずから異端の闇に身を委ねた者たちは別であって、彼らが立ち返るときには、按手のみによって迎え入れられるべきである。
Acta 6.0.105
Ιανουάριος ἀπὸ Οὺβικοῦ εἶπεν· Εἰ μὴ συγκατατίθεται ἡ πλάνη τῇ ἀληθείᾳ, πολὺ μᾶλλον ἡ ἀλήθεια οὐ συγκατατίθεται τῇ πλάνῃ. Διὸ καὶ ἡμεῖς συνιστάμεθα τῇ Ἐκκλησίᾳ, ἐν ᾗ καὶ προκαθεδράσθημεν, ἵνα τοὺς ἐν αὐτῇ μὴ βαπτισθέντας βαπτίσωμεν.
PL 3, 1092Aウビコのイアヌアリオスは言った。迷いが真理に同意しないのであれば、なおのこと真理は迷いに同意しない。それゆえ、我々は自らが座に着いているこの教会に立ち、その中で洗礼を受けていない者たちに洗礼を授けるのである。
Acta 6.0.106
Σεκουνδῖνος ὁ ἀπὸ Καλπῶν εἶπεν· Εἰ χριστιανοί ἐισιν οἱ αἱρετικοὶ, διά τί ἐν τῇ Ἐκκλησίᾳ τοῦ Θεοῦ οὐκ εἰσίν; εἰ δὲ μὴ χριστιανοὶ εἰσι, γινέσθωσαν. Δῆλον οὖν ἐπάνω υἱῶν ἀλλοτρίων καὶ σπορᾶς Αντιχρίστου, διὰ μόνης Χειρεπιθεσίας, μὴ δύνασθαι ἅγιον Πνεῦμα κατελθεἱν.
PL 3, 1092Aカルポンのセクンディノス〔底本の綴りは Καλπῶν。ラテン語版の Carpis の崩れた形かもしれない〕は言った。もし異端者たちがキリスト教徒であるならば、なぜ彼らは神の教会の中にいないのか。もしキリスト教徒でないならば、そうならせればよい。それゆえ明らかなことは、他人の子ら、反キリストの種の上には、按手だけによっては聖なる霊が下ることができないということである。
Acta 6.0.107
Οὐικτερίνος ἀπὸ Θαβάκων εἶπεν· Εἰ ἒξεστι τοῖς αἱρετικοῖς βαπτίσαι, καὶ ἄγιον Πνεῦμα δοῦναι καὶ ἄφεσιν ἁμαρτιῶν, τί άυτῶν καταψευδόμεθα, ἵνα αὐτοὺς αἱρετικοὺς ὀνομάσωμεν; Ἄλλος Φίληξ άπὸ Θυίνης εἶπεν· Ὀφείλομεν διαβεβαιῶσαι ἵνα πάντες οἱ αἱρετικοὶ οἱ προσερχόμενοι τῇ Ἐκκλησίᾳ βαπτισθῶσιν, ὅπως ἡ ἒξω γενομένη διαστροφὴ ἐπανορθωθῇ καὶ ἀγιασθῇ.
PL 3, 1092Bタバコンのオウィクテリノスは言った。もし異端者たちに洗礼を授け、聖なる霊と罪の赦しを与えることが許されるのであれば、我々は彼らについて偽って、彼らを異端者と呼んでいることになるではないか。テュイネの別のフェリクスは言った。我々は、教会に近づいて来るすべての異端者が洗礼を受けるべきことを確言しなければならない。それは、外にあって生じた曲がりが正され、聖なるものとされるためである。
Acta 6.0.108
Κούιντος ἀπὸ Οὐροὺκ εἶπεν· Εἰ οἱ παρὰ τοῖς αἱρετικοῖς βαπτιζόμενοι ἀφέσεως ἁμαρτιῶν καὶ αἰωνίου ζωῆς τυγχάνουσι, τί πρὸς τὴν Ἐκκλησίαν ἒρχονται; εἰ δὲ εἰς μετάνοιαν ἒρχονται, ἐν ᾗ καὶ ζωοποιοῦνται βαπτίσματι, ὅπερ ἐν τῇ καθολικῇ Ἐκκλησίᾳ ἐστὶ, βαπτισθῆναι καὶ ἁγιασθῆναι ὀφείλουσιν.
PL 3, 1092Bウルクのクイントスは言った。もし異端者たちのもとで洗礼を受ける者たちが罪の赦しと永遠の生命とを得ているのならば、なぜ彼らは教会にやって来るのか。もし彼らが悔い改めのためにやって来るのであれば、公同の教会にある洗礼によって彼らは生かされるのであるから、彼らは洗礼を受け、聖なるものとされなければならない。
Acta 6.0.109
Κάστος ἀπὸ Δίκης εἶπεν· Ὁ παραπεμπόμενος τὴν ἀλήθειαν, καὶ τῇ συνηθεία ἑπόμενος, ἢ περὶ τοὺς ἀδελφοὺς φθονερὸς, οἶς ἡ ἀλήθεια ἀπεκαλύφθη, ἢ πρὸς Θεὸν τὸν ἀποκαλύψαντα ἀχάριστος. Εὐχράτιος ἀπὸ Θενῶν εἶπε.
PL 3, 1092Cディケのカストス〔底本の座名 Δίκης はラテン語版の Sicca と形が異なり、崩れているらしい〕は言った。真理を退けて慣習に従う者は、真理が啓示された兄弟たちに対して妬み深いか、それを啓示した神に対して恩知らずであるかのいずれかである。テノンのエウクラティオスは言った。
Acta 6.0.110
Τοὺς αἱρετικοὺς ἐρχομένους εἰς τὴν Ἐκκλησίαν ὀρθῷ καἱ καθολικῷ βαπτίσματι βαπτίζεσθαι δεῖ, ἵνα ἀπονιψάμενοι τὰς ἁμαρτίας ἁγιασθῶσιν.
PL 3, 1092C教会に来る異端者たちは、正しい公同の洗礼によって洗礼を受けなければならない。それは、罪を洗い流されて、聖なるものとされるためである。
Acta 6.0.111
Λίβυσσος ἀπὸ Οὐργάσης εἶπεν· Ο Κύριός φησιν· Ἐγώ εἰμι ἡ ἀλήθεια, ὣστε ἀποκαλυφθείσης τῆς ἀληθείας παραχωρείτω ἡ συνήθεια, ἵνα εἰ καὶ τὸ πρότερόν τις ἐν τῇ Ἐκκλησίᾳ τοὺς αἱρετικοὺς μὴ ἐβάπτισε, νῦν βαπτίση.
PL 3, 1092Cウルガセのリブッソスは言った。主は言われる、「私は真理である」と。したがって、真理が明らかにされた以上、慣習はそれに道を譲るべきである。たとえ以前は教会において異端者たちに洗礼を授けなかった者があったとしても、今はこれを授けるべきである。
Acta 6.0.112
Λευκῖνος ἀπὸ Θιουίσου εἶπε· Τοὐς γὰρ αἱρετικοὺς ὡς βλασφήμους καὶ ἀνοσίους, πλάνοις λόγοις τὰς θείας Γραφὰς παραχαράσσοντας, ἀναθεματίζειν δεῖ· καὶ διὰ τοῦτο τοὺς τοιούτους ἐξορκιζειν καὶ βαπτίζειν ὀφείλομεν.
PL 3, 1092Dティウイソのレウキノスは言った。異端者たちは、冒瀆的で不敬虔な者として、人を惑わす言葉によって神聖な聖典を偽り変えているのだから、彼らを排斥すべきである。それゆえ、我々はそのような者たちに悪霊祓いを行い、洗礼を授けなければならない。
Acta 6.0.113
Εὐγένιος Αμμεδάρων εἶπε· Κᾁγὼ τοῦτο κρίνω, δεῖν τοὺς αἱρετικοὺς βαπτίζεσθαι. Ἄλλος Φίληξ ἀπὸ Μεκκόρας εἶπε· Καὶ αὐτὸς ἑπόμενος τῷ κανόνι τῶν θείων Γραφῶν, τοὺς αἱρετικοὺς καὶ σχισματικοὺς, βαπτίζεσθαι ἀποφαίνομαι.
PL 3, 1092Dアンメダロンのエウゲニオスは言った。私もまた、異端者たちは洗礼を受けるべきであると考える。メッコラの別のフェリクスは言った。私自身もまた、神聖な聖典の規範に従って、異端者と離教者は洗礼を受けるべきであると宣言する。
Acta 6.0.114
Ιανουάριος ἀπὸ Μουκούζης εἶπεν· Αἱρετικοὶ ἒχουσι βάπτισμα; ἡμεῖς οὐκ ἒχομεν· εἰ ἡμεῖς ἒχομεν, αἱρετικοὶ ἒχειν οὐ δύνανται.
PL 3, 1094Aムクゼのイアヌアリオスは言った。異端者たちは洗礼を持っているのか。それならば我々は持っていないことになる。もし我々が持っているのであれば、異端者たちが持つことはできない。
Acta 6.0.115
Ἀμφισβητήσιμον δὲ οὐκ ἔστι τὴν Ἐκκλησίαν τὴν καθολικὴν τῷ τοῦ Χριστοῦ βαπτίσματι κεχρῆσθαι, τὴν μόνην κεκτημένεν χάριν καὶ ἀγάπην καὶ ἀλήθειαν τοῦ Χριστοῦ.
PL 3, 1094A公同の教会がキリストの洗礼を有していることは疑いえない。この教会のみが、キリストの恩寵と愛と真理とを持っているのである。
Acta 6.0.116
Ἀδέλφιδος ἀπὸ Θασβελθης εἶπε· Μάτην τινὲς τῇ ἀληθείᾳ πολεμοῦσι, λέγοντες ἡμᾶς ἀναβαπτίζειν· ὴ γὰρ Ἐκκλησία τοὺς αἱρετικοὺς οὐκ ἀναβαπτίζει, ἀλλὰ βαπτίζει.
PL 3, 1094Aタスベルテスのアデルフィドスは言った。ある者たちは、我々が再び洗礼を授けていると言って、いたずらに真理と戦っている。教会は異端者たちに再び洗礼を授けるのではなく、洗礼を授けるのである。
Acta 6.0.117
Δημήτριος ἀπὸ Πολεμόνου εἶπεν· Οἱ λέγοντες, ὅτι οἱ αἱρετικοὶ ἀληθῶς καὶ νομίμως βαπτίζουσιν, οὗτοι οὐ μόνον δύο, ἀλλὰ καὶ πολλὰ βαπτίσματα εἰσάγουσιν· ὁπότε γὰρ διαφοροι καὶ πολλαὶ αἱρέσεις εἰσὶ, κατὰ τὸν ἀριθμὸν ἀυτῶν, καὶ τά βαπτίσματα ἀριθμεῖται.
PL 3, 1094Aポレモンのデメトリオス〔底本の座名 Πολεμόνου はラテン語版の Leptiminus と形が大きく異なる〕は言った。異端者たちが真実かつ合法的に洗礼を授けると言う者たちは、二つどころか多くの洗礼を持ち込んでいることになる。異なる多くの異端があるのだから、その数に応じて洗礼の数も数えられることになるからである。
Acta 6.0.118
Οὐικέντιος ἀπὸ Θιβάρης εἶπε· Τοὺς αἱρετικοὺς οἴδαμεν χείρονας τῶν σχισματικῶν· ἐὰν δὲ μετανοήσαντες θελήσωσιν ἐλθεῖν εἰς κανόνα τῆς ἀληθείας, πρότερον ἐξορκίζειν, ἒπειτα βαπτίζειν αὐτοὺς δεῖ, τότε γὰρ δύνανται τῆς Χριστοῦ ἐπαγγελίας τυχεῖν.
PL 3, 1094Bティバリのオウィケンティオスは言った。我々は、異端者たちが離教者たちよりも悪い者であることを知っている。もし彼らが悔い改めて真理の規範に来ることを望むならば、まず悪霊祓いを行い、それから洗礼を授けなければならない。そのときにこそ、彼らはキリストの約束にあずかることができるのである。
Acta 6.0.119
Μάρκος ἀπὸ Μαθάρων εἶπε· Κρίνω ὡς μηδὲν ἔχοντας τοὺς αἱρετικούς βαπτίζεσθαι. Σάτιος ἀπὸ Σακιλιβύης εἶπεν· Εἰ τοῖς αἱρετικοῖς ἐν τῳ βαπτίσματι αυτῶν ἄφεσις ἁμαρτιῶν γίνεται, ματὴν τῇ Ἐκκλησίᾳ προσέρχονται, οὐδεν γὰρ ἐστι τὸ δυνάμενον φοβῆσαι ἀυτοὺς, ἐν τῇ κρίσει τοῦ Χριστοῦ, ἄφεσιν ἁμαρτιῶν εἰληφότας.
PL 3, 1094Bマタロンのマルコスは言った。異端者たちは何も持たない者として洗礼を受けるべきだと私は考える。サキリブアのサティオスは言った。もし異端者たちが自分たちの洗礼において罪の赦しを得ているのであれば、彼らが教会に来るのは無駄である。なぜなら、すでに罪の赦しを受けた者たちを、キリストの裁きにおいて恐れさせうるものは何もないからである。
Acta 6.0.120
Αὐρήλιανος ἀπὸ Αττικῆς εῖπε· Λέγοντος τοῦ Ἀποστόλου ἀλλοτρίαις ἀμαρτίαις μὴ κοινωνεῖν, βαπτίζεσθαι τοὺς αἱρετικοὺς, ἵνα λάβωσι πρότερον ἄφεςιν ἁμαρτιῶν, καὶ οὕτω αὐτοῖς κοινωνἡσωμεν.
PL 3, 1094Cアッティケのアウレリアノスは言った。使徒が「他人の罪に与ってはならない」と言っているのだから、異端者たちは洗礼を受けるべきである。まず罪の赦しを受けさせ、そうしてから我々は彼らと交わろうではないか。
Acta 6.0.121
Ιαμβὸς ἀπὸ Γερμανικείας εἶπεν· Οἰ τὸ τῶν αἰρετικῶν δοκιμήζοντες βάπτισμα, τὸ ἡμέτερον ἀποδοκιμάζουσιν. Λουκιανὸς άπὸ Ρουκούμης εἶπεν· Εἰ δυνατὸν φῶς καὶ σκότος κοινωνεῖν, δύναται καὶ ἡμῖν καὶ τοῖς αἱρετικοῖς εἶναί τι κοινόν· κρίνω οὖν τοὺς αἱρετικοὺς βαπτίζεσθαι.
PL 3, 1094Cゲルマニケイアのイアンボスは言った。異端者たちの洗礼を是認する者たちは、我々の洗礼を否認していることになる。ルクマのルキアノスは言った。もし光と闇とが交わり得るのであれば、我々と異端者たちとの間にも何か共通のものがあり得よう。それゆえ、私は異端者たちが洗礼を受けるべきであると考える。
Acta 6.0.122
Πελάγιος ἀπὸ Λουπερκιανῆς εἶπεν· Εἰ αἵρεσις οὐκ ἒστιν ἐν Ἐκκλησίᾳ, πῶς δύναται παρὰ τοῖς αἱρετικοῖς εῖναι τὸ τῆς Ἐκκλησίας βάπτισμα; Ιάδερ ἀπὸ Μηδείας εἶπε· Μία πίστις ἓν βάπτισμα, ἀλλὰ τῇ καθολικῇ Ἐκκλησίᾳ ἔξεστι βαπτίζειν. Ἄλλος Φίληξ ἀπὸ Μαρδιανῆς εἶπε· Τὰ αὐτά.
PL 3, 1094Dルペルキアナのペラギオスは言った。もし異端が教会の中にないのであれば、どうして異端者たちのもとに教会の洗礼があり得ようか。メデイアのイアデルは言った。信仰は一つ、洗礼は一つであるが、洗礼を授けることができるのは公同の教会だけである。マルディアナの別のフェリクスは言った。同じことを。
Acta 6.0.123
Παῦλος ἀπὸ Σαβᾶς εἶπεν· Εἰ ὁ Θεὸς ἀληθής ἐστι, πῶς ἔσται παρὰ τοῖς αἱρετικοῖς ἀληθὲς βάπτισμα, παρ' οἷς οὐκ ἒστι Θεός; Πομπώνιος ἀπὸ Διονυσιανῆς εἶπεν· Οἱ αὶρετικοὶ οὐ δύνανται βαπτίζειν, οὐδὲ ἄφεσιν ἁμαρτιων δοῦναι, οἱ μὴ ἔχοντες ἐξουσίαν λῦσαί τι ἐπὶ τῆς γῆς ἢ δῆσαι.
PL 3, 1094Dサバスのパウロスは言った。もし神が真実であるならば、神のいないところの異端者たちのもとに、どうして真実の洗礼があり得ようか。ディオニュシアナのポンポニオスは言った。異端者たちは洗礼を授けることも罪の赦しを与えることもできない。彼らは地上において何かを解く権能も、縛る権能も持っていないからである。
Acta 6.0.124
Οὐινάτος ἀπὸ Θηίνίσης εἶπεν· Ὁ τὸ βάπτισμα τῆς Ἐκκλησίας τοῖς αἱρετικοῖς κοινῶν, τὴν νύμφην τοῦ Χριςτοῦ μοιχοῖς παραδίδωσιν.
PL 3, 1096Aティニセのオウィナトスは言った。教会の洗礼を異端者たちと共有する者は、キリストの花嫁を姦夫たちに引き渡すのである。
Acta 6.0.125
Λυμμος ἀπὸ Ασυάγης εἶπεν· Ἡμεῖς ἓν βάπτισμα εἰλήφαμεν, καὶ τούτο ἐξακολουθοῦμεν· ὁ δὲ λέγων, καὶ τοῖς αἱρετικοῖς ἔξεστι βαπτίζειν, δύο βαπτίσματα εἰσάγει.
PL 3, 1096Aアスアゲのリュムモス〔人名・座名とも崩れているらしい。ラテン語版の Ahymnus a Ausvaga に当たると思われる〕は言った——「我々は一つの洗礼を受け、これに従っている。異端者にも洗礼を授けることが許されると言う者は、二つの洗礼を持ち込んでいるのである。」
Acta 6.0.126
Σατορνῖλος ἀπὸ Ιουκτορνιανῆς εἶπεν· Εἰ ἔξεστι τοῖς αἱρετικοῖς βαπτίζειν ἀνέγκλητοί εἰσιν ἄνομα ποιοῦντες, οὐδὲ εὑρήσεις διὰ τι αὐτοὺς ὁ Χριστὸς ἐναντίους, ἢ ὁ Ἀπόστολος Αντιχρίστους ὀνομάζει.
PL 3, 1096Aイウクトルニアネのサトルニロス〔底本の座名 Ιουκτορνιανῆς は崩れており、ラテン語版の Victoriana に当たる可能性がある〕は言った——「もし異端者に洗礼を授けることが許されるのであれば、彼らは不法を行いながらも咎められないことになる。そうなれば、キリストが彼らを敵対者と呼び、使徒が彼らを反キリストと呼ぶ理由も、見出されなくなるだろう。」
Acta 6.0.127
Σατορνῖλλος ἄλλος ἀπὸ Συκῆς εἶπεν· Οἱ ἐθνικοὶ εἰ καὶ ἒδωλα σέβονται, ὅμως τὸν Θεὸν πατέρα καὶ κτίστην ἐπιγινώσκουσι καὶ ὁμολογοῦσι δεσπότην· εἰς τοῦτων Μαρκίων βλασφημεῖ, καὶ πῶς οὐκ αισχύνονται οἱ τὸ Μαρκίωνος βάπτισμα δοκιμάζοντες; Μάρκελλος ἀπὸ Ζάμης εἶπεν· Ὁπότε ἂφεσις ἁμαρτιῶν οὐδαμοῦ, εἰ μὴ ἐν τῇ Ἐκκλησίᾳ διδοται, ὁ αἰρετικοὺς μὴ βαπτίζων, ἀμάρτωλῷ κοινωνεῖ.
PL 3, 1096Bトゥッカの、また別のサトルニロスは言った——「異教徒たちは偶像を拝んではいても、なお神を父・創造者として認め、支配者と告白している。マルキオンはこの神を冒瀆しているのに、マルキオンの洗礼を是とする者たちは、どうして恥じないのか。」ザマのマルケッルスは言った——「罪の赦しは教会においてでなければどこにもない以上、異端者に洗礼を授けない者は、罪人に与するのである。」
Acta 6.0.128
Εἰρηναῖος ἀπὸ Ουλῶν εἶπεν· Εἰ διὰ τοῦτο ἡ Ἐκκλησία τὸν αἱρετικὸν οὐ βαπτίζει, ὅτι ἤδη λέγεται βεβαπτίσθαι, προκρίνει ἡ αἵρεσις καὶ μείζων γίνεται. Δονάτος ἀπὸ Κιβαλινῆς εἶπεν· Ο λέγων παρὰ τοῖς αἱρετικοῖς χάριν βαπτίσματος εἶναι, πρότερον ἀποδειξάτο Ἐκεῖ ἐκκλησίαν.
PL 3, 1096Bウルリのエイレナイオスは言った——「もし教会が、異端者はすでに洗礼を受けたと言われているという理由で彼に洗礼を授けないのであれば、異端の方が優先され、いっそう大きなものとなってしまう。」キバリアナのドナトゥスは言った——「異端者のもとに洗礼の恩恵があると言う者は、まずそこに教会があることを示すがよい。」
Acta 6.0.129
Ζώσιμος ἀπὸ Θαραζοῦ εἶπεν· Ἀποκαλυφθείσης τῆς ἀληθείας, παραχωρείτω ἡ πλάνη τῃ ἀληθείᾳ. Ιουλιανὸς ἀπὸ Φιλίππου εἶπε· Γέγραπται, Οὐ δύναται ἄνθρωπος λαμβάνειν οὐδὲν, ἐὰν μὴ ᾖ δεδομένον ἀυτῷ ἐκ τοῦ οὐρανοῦ· εἰ ὴ ἀιρεσις ἐξ οὐρανοῦ ἐστι, δύναται καὶ οὐράνιον βάπτισμα δοῦναι.
PL 3, 1096Cタラッサのゾシムスは言った——「真理が啓示された以上、迷いは真理に道を譲るべきである。」ピリッポウのユリアヌス〔座の名 Φιλίππου は、第V部の対応する発言の座 Telepte と大きく異なる。崩れが疑われるが、底本のまま音写した〕は言った——「『天から与えられたのでなければ、人は何も受けることができない』と書かれている。もし異端が天からのものであるなら、天の洗礼を授けることもできよう。」
Acta 6.0.130
Φαῦστος ἀπὸ Θημίδης εἶπεν· Οἱ τὸ τῶν αἱρετικῶν πρὸς τὸ τῆς ἐκκλησίας βάπτισμα ἐνιστάμενοι, ἐκείνους μὲν χριστιανοὺς, ἡμᾶς ταὶ αἱρετικοὺς ποιοῦσιν. Γεμῖνος ἀπὸ Φόρμης εἶπεν· Ο ἅπαξ ἐκρίναμεν, τοῦτο καὶ κατέχομεν· ἵνα τοὺς ἀπὸ αἱρέσεων ἐρχομένους βαπτίζωμεν.
PL 3, 1096Cティミダのファウストゥスは言った——「異端者の洗礼を教会の洗礼と同列に立てる者たちは、彼らをキリスト教徒とし、我々を異端者としてしまう。」フルニスのゲミニウスは言った——「我々が一度定めたことを、我々は今も守っている。すなわち、異端から来る者たちには洗礼を授けるということである。」
Acta 6.0.131
Ρογατιανὸς ἀπὸ Οὕσης εἶπεν· Τὴν Ἐκκλησιαν ὁ Χριστὸς ὠκοδομησε, τμν αἵρεσιν ὁ διάβολος· πῶς οὖν δύναται ἔχειν βάπτισμα Χριστοῦ ἡ συναγωγὴ διάβολοῦ; Θῆράπιος ἀπὸ Βουλισμίου εἶπεν· Ο τοῖς αἱρετεκοῖς τὸ βάπτισμα τῆς Ἐκκλησίας προδιδοὺς, τί ἄλλο ἢ τῆς νύμφης τοῦ Χριστοῦ προδότης γίνεται; Λούκιος ἀπὸ Μεμερέσης εἶπε.
PL 3, 1096Dホウセのロガティアヌスは言った——「教会はキリストが建て、異端は悪魔が建てた。それならばどうして、悪魔の会衆がキリストの洗礼を持つことができようか。」ボウリスミウのテラピウスは言った——「異端者に教会の洗礼を売り渡す者は、キリストの花嫁を裏切る者以外の何であろうか。」メンブレサのルキウスは言った——
Acta 6.0.132
Γέγραπται, ὅτι ὁ Θεὸς ἁμαρτωλῶν οὐκ ἀκούει· ὁ δὲ αἱρετικὸς ὢν ἁμαρτωλὸς, πῶς ἀκούεται εν τῷ βαπτίζειν; Αλλὸς Φιληξ ἀπὸ Ούαγλακηνῆς εἶπεν· Ἐν τῷ προδέχεσθαι τοὺς αἱρετικοὺς ἂνευ τοῦ τῆς Ἐκκλησίας βαπτίσματος, μηδεὶς τὴν συνήθειαν λόγου καὶ τῆς ἀληθείας προκρινέτω.
PL 3, 1096D「神は罪人の言うことを聞き入れない、と書かれている。罪人である異端者が、洗礼において聞き入れられることが、どうしてできようか。」また別の、ウアグラケネ〔底本の座の名は Ούαγλακηνῆς。崩れが疑われ、第V部の Felix a Bussacenis に当たる可能性があるが、確かでない〕のフィリクスは言った——「教会の洗礼なしに異端者を迎え入れることにおいて、誰も慣習を理と真理よりも優先させてはならない。」
Acta 6.0.133
Ἄλλος Σατορνῖλος ἀπὸ Πλουτίμνης εἶπεν· Εἰ δύναται Ἀντίχριστος δοῦναι τὴν χάριν τοῦ Χριστοῦ, δύνανται καὶ οἱ αἱρετικοὶ βαπτίζειν, οἱ ὀνομασθέντες ἀντίχριστοι.
PL 3, 1098Aまた別の、プルティムネのサトルニロスは言った——「もし反キリストがキリストの恩寵を与えることができるのであれば、反キリストと呼ばれる異端者たちにも、洗礼を授けることができるであろう。」
Acta 6.0.134
Κοίντος ἀπὸ Οὐγβᾶς εἶπεν· Ὁ Θεὸς εἷς ἐστι, καὶ Ἐκκλησία μία καὶ ἓν βάπτισμα καὶ πῶς δύναταί τις βαπτισθῆναι ἐκεῖ, ὅπου οὔτε Θεὸς, οὔτε Χριστὸς, οὔτε Ἐκκλησία ἐστί; Ἰουλιανὸς ἀπὸ Μαρκελλιανῆς εἶπεν· Εἰ δύναται ἂνθρωπος δυσὶ κυρίοις δουλεύειν, Θεῷ καὶ μαμωνᾷ, δύναται καὶ βάπτισμα δυσὶν ὑπηρετεῖν.
PL 3, 1098Aアッギアのクイントゥスは言った——「神は一つであり、教会も一つ、洗礼も一つである。それなら、神もキリストも教会も無いところで、いったいどうして人が洗礼を受けられようか。」マルケッリアナのユリアヌスは言った——「もし人が神とマモンという二人の主人に仕えることができるのであれば、洗礼もまた二つのものに仕えることができよう。」
Acta 6.0.135
Τέναξ ἀπὸ Ὀρίων Κελλίων εἶπεν· Βάπτισμα ἕν ἐστιν, ἀλλὰ τῆς Ἐκκλησίας, ἧς τὸ βαπτισμα ἀληθές.
PL 3, 1098Aホッレイス・カエリアエのテナクスは言った——「洗礼は一つであるが、それは教会の洗礼であり、教会の洗礼こそが真である。」
Acta 6.0.136
Ἄλλος Οὐίκτωρ ἀπὸ Ἀσούρας εἶπεν ὁμοίως· Δουνατοῦλος ἀπὸ Κάμφης εἶπεν· Ἀεὶ τοῦτο ἐγὼ ἐφρόνησα, ἵνα οἱ αἱρετικοὶ, μηδὲν ἔξω λαβεῖν δυνάμενοι, ὅταν πρὸς τὴν Ἐκκλησίαν ἔλθωσι, βαπτισθῶσιν.
PL 3, 1098Bまた別の、アッスラスのウィクトルも同様に言った。カプサのドナトゥルスは言った——「私は常にこう考えてきた。すなわち、外では何も得ることのできない異端者たちは、教会に来たときに洗礼を授けられるべきである、と。」
Acta 6.0.137
Οὐήρουλος ἀπὸ Ῥουσιοκάδας εἶπεν· Ἄνθρωπος αἱρετικὸς δύναται δοῦναι ὃ μὴ ἔχει, πολὺ μᾶλλον σχισματικὸς, ὅπερ εἶχεν ἀπολέσας. Πουδεντιανὸς ἀπὸ Κουινκόλης εἶπεν· Ἐάν τις ἀπὸ αἱρέσεως ἔλθῃ, βαπτισθῆναι αὐτὸν ὀρθῶς καὶ δικαίως κέκριται.
PL 3, 1098Bルシッカデのウェルルスは言った——「異端者である人間が、自分の持たないものを与えることなどできようか。まして離教者はなおのことできない——彼は、かつて持っていたものを失ったのだから。」クイクリのプデンティアヌスは言った——「異端から来る者は洗礼を授けられるべきであると、正しくかつ公正に定められている。」
Acta 6.0.138
Πέτρος ἀπὸ Ἱππῶνος Διαῤῥύτου εἶπεν· Ἐπεὶ ἓν βάπτισμά ἐστιν ἐν μόνῃ τῇ Ἐκκλησίᾳ, διὰ τοῦτο τοὺς ἀπὸ τῶν αἱρετικῶν καὶ σχισματικῶν ἐλθόντας, ὡς μηδὲν ἐκεῖθεν εἰληφότας, ἐν τῃ Ἐκκλησίᾳ βαπτίζεσθαι κρίνω.
PL 3, 1098Bヒッポ・ディアッリュトゥムのペトロスは言った——「洗礼は教会にのみ一つあるのだから、異端者や離教者のもとから来た者たちは、そこでは何も受けていない者として、教会において洗礼を授けられるべきであると私は判断する。」
Acta 6.0.139
Ἄλλος Λούκιος ἀπὸ Αὐσάφης εἶπεν· Ἑνὸς ὄντος Θεοῦ καὶ πατρὸς καὶ υἱοῦ καὶ ἁγίου πνεύματος, καὶ μιᾶς ἐλπίδος, καὶ μιᾶς Ἐκκλησίας, τὰ παρὰ τοῖς αἱρετικοῖς πραττόμενα λύεσθαι δεῖν φημι, καὶ τοὺς ἀπ' αὐτῶν ἐρχομένους ἐν τῇ Ἐκκλησίᾳ βαπτίζειν.
PL 3, 1098Cまた別の、アウサファのルキウスは言った——「神なる父も子も聖霊も一つであり、希望も一つ、教会も一つである以上、異端者たちのもとで行われることは無効とされるべきであり、彼らのもとから来る者たちは教会において洗礼を授けられるべきである、と私は言う。」
Acta 6.0.140
Ἄλλὸς Φίληξ ἀπὸ Τουριτῶν εἶπεν· Ἐγὼ κρίνω ἵνα, ἀκολούθως ταῖς θείαις γραφαῖς, ἄνομοι παρὰ τοῖς αἱρετικοῖς βαπτισθέντες, ἂν πρὸς τὴν Ἐκκλησίαν καταφύγωσι, τῷ τῆς Ἐκκλησίας βαπτίσματι, ἔνθα πᾶσα ἐξουσία παρὰ τοῦ Θεοῦ δέδοται, βαπτισθῶσιν.
PL 3, 1098Cまた別の、トゥリトンのフィリクスは言った——「私はこう判断する。すなわち、神聖な聖典に従い、異端者のもとで不法に洗礼を受けた者たちは、教会に逃れて来るならば、あらゆる権能が神によって与えられている教会の洗礼によって、洗礼を授けられるべきである、と。」
Acta 6.0.141
Πλουτιανὸς ἀπὸ Λαβάνης εἶπεν· Ἐγὼ πιστεύω βαπτίσματι σωτηρίαν μὴ εἶναι, εἰ μὴ ἐν μόνῃ τῇ καθολικῇ Ἐκκλησίᾳ, καὶ ὅταν ἒξω τῆς Ἐκκλησίας γένηται, πιθηκισμὸν εἶναι.
PL 3, 1098Cラバネのプルティアヌス〔発言内容は第V部の Pusillus a Lamasba に当たるらしいが、人名 Πλουτιανός も座の綴りも一致しない。崩れと見て底本のまま音写した〕は言った——「私は、救いをもたらす洗礼はただ公同の教会のうちにのみあると信じる。教会の外でなされる洗礼は、猿真似にすぎない。」
Acta 6.0.142
Σαλουιανὸς ἀπὸ Ζυφάλης εἶπεν· Τοὺς αἱρετικοὺς μηδὲν ἒχειν συνέστηκε, καὶ διὰ τοῦτο πρὸς ἡμᾶς ἒρχονται, ἵνα λάβωσιν ὃ μὴ ἒχουσιν.
PL 3, 1098Dガザウファラのサルウィアヌスは言った——「異端者たちが何も持たないことは明らかである。だからこそ彼らは我々のもとに来て、自分たちの持たないものを受け取ろうとするのである。」
Acta 6.0.143
Ὁνωράτος ἀπὸ Λούγκης εἶπεν· Ὁπότε ὁ Χριστὸς ἀληθής ἐστι, μᾶλλον τῇ ἀληθείᾳ, ἢ τῆ συνηθείᾳ ἕπεσθαι ὀφείλομεν, ἵνα τοὺς αἱρετικοὺς, διὰ τοῦτο πρὸς ἡμᾶς ἐρχομένους, ὅτι ἔξω μηδὲν λαβεῖν ἠδυνήθησαν, τῷ τῆς Ἐκκλησίας βαπτίσματι ἁγίασωμεν.
PL 3, 1098Dロンケのホノラトゥスは言った——「キリストは真理であるからには、我々は慣習よりもむしろ真理に従うべきである。外では何も受け取ることができなかったために我々のもとへ来る異端者たちを、教会の洗礼によって聖化しようではないか。」
Acta 6.0.144
Οὐίκτωρ ἀπὸ Ὀκτύβου εἶπεν· Τοῦτο καὶ αὐτὸς φρονῶ, ἵνα οἱ ἀπὸ αἱρέσεως ἐρχόμενοι, ἀδιστάκτως βαπτισθῶσι.
PL 3, 1098Dオクタウムのウィクトルは言った——「私自身もこう考える。異端から来る者たちは、ためらうことなく洗礼を授けられるべきである。」
Acta 6.0.145
Κλάριος ἀπὸ Μασκούλης εἶπεν· Πρόδηλός ἐστιν ἡ τοῦ Κύρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ ἀπόφασις ἀποστέλλοντος τοὺς ἑαυτοῦ ἀποςτόλους, καὶ αὐτοῖς μόνοις τὴν ἐξουσίαν ἐπιτρέποντος, οἷς ἡμεῖς ἐξακολουθοῦμεν, τῇ αὐτῶν ἐξουσίᾳ τὴν Ἐκκλησίαν Θεοῦ κυβερνῶντες, καὶ τοὺς πιστεύοντας βαπτίζοντες· καὶ διὰ τοῦτο οἱ αἱρετικοὶ οἱ μήτε τὴν ἐξουσίαν ἔχοντες, μήτε τὴν Ἐκκλησίαν, οὐδὲ βαπτίζειν τῷ τῆς Ἐκκλησίας βαπτίσματι δύνανται.
PL 3, 1100Aマスクラのクラルスは言った——「我々の主イエス・キリストが、御自らの使徒たちを遣わし、彼らにのみ権能を委ねられたことは明らかである。我々はその使徒たちに従い、彼らの権能によって神の教会を治め、信じる者たちに洗礼を授けている。それゆえ、権能も教会も持たない異端者たちは、教会の洗礼によって洗礼を授けることなどできないのである。」
Acta 6.0.146
Σεκονδιανὸς ἀπὸ Θάμβης εἶπεν· Οὐδαμῶς ὀφείλομεν τοὺς αἱρετικοὺς τῇ ἡμετέρᾳ φιλονεικίᾳ ἐνεδρεύειν, ἵνα οἱ ἐν τῇ Ἐκκλησίᾳ τοῦ Κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ μὴ βαπτισθέντες, ὁπόταν ἡ ἡμέρα τῆς κρίσεως ἔλθῃ, ἡμᾶς αἰτιάσωνται, ὅτι δί ἡμᾶς οὐκ ἐβαπτίσθησαν, οὐδὲ τὴν ἄφεσιν τῶν ἁμαρτιῶν ἒλαβον· διόπερ, μιᾶς οὔσης τῆς Ἐκκλησίας καὶ τοῦ βαπτίσματος, ὅταν πρὸς ἡμᾶς ἒλθωσι, μετὰ τῆς Ἐκκλησίας καὶ τοῦ βαπτίσματος τυχεῖν ὀφείλουσιν.
PL 3, 1100Aタンベイスのセクンディアヌスは言った——「我々は、自分たちの好戦的な思いで異端者たちを罠にかけるようなことを、決してすべきではない。そうでなければ、我々の主イエス・キリストの教会において洗礼を受けなかった者たちが、審判の日が来たとき、我々のせいで洗礼を受けられず、罪の赦しも得られなかったと、我々を責めることになるだろう。だからこそ、教会も洗礼も一つである以上、彼らが我々のもとに来るときには、教会とともに洗礼にもあずかるべきである。」
Acta 6.0.147
Αὐρήλιος ἀπὸ Χολλαβῆς εἶπεν· Ἰωάννης ὁ ἀπόστολος ἐν ἐπιστολῇ αὐτοῦ ἔφη· Εἴ τις ἔρχεται πρὸς ὑμᾶς, καὶ τὴν διαδοχὴν τοῦ Θεοῦ οὐ φέρει, μὴ λαμβάνετε αὐτὸν εἰς οἰκίαν, καὶ χαίρειν αὐτῷ μὴ λέγετε· ὁ λέγων αὐτῷ χαίρειν, κοινωνεῖ τοῖς λόγοις αὐτοῦ, καὶ τοῖς ἔργοις πονηροῖς· πῶς οὖν τοι εἰσδεχθῆναι εἰς οἰκίαν τοῦ Θεοῦ δύνανται, ἢ πῶς αὐτοῖς χωρὶς τοῦ τῆς Ἐκκλησίας βαπτίσματος κοινωνῆσαι δύναμεθα, εἰ μὴ τοῖς πονηροῖς αὐτῶν ἔργοις κοινωνοῦμεν; Βίκτωρ ἀπὸ Γεμέλλων εἶπεν· Τυφλὸς τυφλὸν ἐὰν ὁδηγῇ, ἀμφότεροι εἰς βόθυνον πεσοῦνται· ἐπεὶ οὖν σαφές ἐστι, μὴ δύνασθαι αἱρετικόν τινα φωτίσαι, ἅτε δὴ τυφλῶν αὐτῶν ὄντων, τῶν τοιούτων τὸ βάπτισμα οὐδέν ἐστι.
PL 3, 1100Bコッラビのアウレリウスは言った——「使徒ヨハネはその書簡の中でこう言っている。『もし誰かが汝らのもとに来て、神の教えを携えていないなら、彼を家に迎え入れるな。彼に挨拶の言葉をかけるな。彼に挨拶する者は、その言葉と悪しき行いとにあずかるのである』と。それならば、そのような者たちがどうして神の家に迎え入れられえようか。あるいは、教会の洗礼なしに、彼らの悪しき行いにあずからずして、我々がどうして彼らと交わることができようか。」ゲメッリのウィクトルは言った——「盲人が盲人を導けば、二人とも穴に落ちる。異端者が誰かを照らすことなどできないのは明らかである——彼ら自身が盲人なのだから。そのような者たちの洗礼は、無に等しい。」
Acta 6.0.148
Ματόλιος ἀπὸ Οἴας εἶπεν· Κᾀγὼ παρὼν καὶ Πόμπηϊος ἀπὸ Σαβράτων, καὶ Διογὰς ἀπὸ Λεπτιμάγνης, οἵπερ ἐνετείλαντό μοι, σώματι μὲν ἀπόντες, τῷ δὲ πνεύματι παρόντες κρίνομεν, ὅπερ καὶ πολλοὶ συνεπίσκοποι ἡμῶν, τοὺς αἱρετικοὺς κοινωνεῖν ἡμῖν μὴ δύνασθαι, ἐὰν μὴ παρ' ἡμῶν βαπτισθῶσιν.
PL 3, 1100Bオエアのマトリオス〔底本の綴りは Ματόλιος。座の一致から第V部の Natalis ab Oea に当たると見られるが、人名の綴りが大きく異なる〕は言った——「私自身がこの場に居り、またサブラタのポンペイオスと、レプティス・マグナのディオガスも——彼らは私に委任した者たちであるが——身体においては不在でも、霊においては在って、我々の多くの同僚司教たちと同じく判断する。すなわち、異端者たちは、我々によって洗礼を授けられない限り、我々と交わりを持つことができない、と。」
Acta 6.0.149
Ἰούνιος ἀπὸ Νεαπόλεως εἶπεν· Ἀπ' ἐκείνου οὗ ἅπαξ ἐκρίναμεν, οὐ χωρίζομαι· ἵνα τοὺς αἱρετικοὺς τοὺς ἐρχομένους εἰς τὴν Ἐκκλησίαν βαπτίζωμεν.
PL 3, 1100Bネアポリスのユニウス〔底本の綴りは Ἰούνιος。第V部の Julius a Neapoli に当たると見られ、ΛとΝの取り違えによる崩れかもしれない〕は言った——「私は、我々が一度定めたことから離れない。すなわち、教会に来る異端者たちには洗礼を授けるということである。」
Acta 6.0.150
Κυπριανὸς ἀπὸ Καρχηδόνος εἶπεν· Τὴν ἐμὴν ἀπόφασιν ὁλόκληρος δείκνυσιν ἐπιστολὴ πρὸς Ἰοβιανὸν συνεπίσκοπον ἡμῶν γραφεῖσα, τοὺς αἱρετικοὺς κατὰ τὴν εὐαγγελικὴν καὶ ἀποστολικὴν μαρτυρίαν ἐναντίους τοῦ Χριστοῦ καὶ Ἀντιχρίστους ὀνομασθέντας, ὁπόταν τῇ Ἐκκλησίᾳ προσέλθωσι, τῷ ἑνὶ τῆς Ἐκκλησίας βαπτίσματι, βαπτίζεσθαι δεῖν, ἵνα δυνηθῶσι γένεσθαι ἄντι ἐχθρῶν φίλοι, καὶ ἐξ Ἀντιχρίστων χριστιανοί.
PL 3, 1100Dカルタゴのキプリアヌスは言った——「私の意見は、我々の同僚司教ヨウィアヌスに宛てて書かれた書簡が余すところなく示している。すなわち、福音と使徒の証言に従ってキリストの敵対者、反キリストと呼ばれる異端者たちは、教会に近づいて来るときには、教会の唯一の洗礼によって洗礼を授けられるべきである、と。それは彼らが、敵から友へ、反キリストからキリスト教徒へと変わることができるためである。」
Acta 6.0.151
ΖΩΝΑΡΑΣ. Αὗται μὲν οὖν αἱ γνῶμαι τῶν ἐν τῇ συνόδῳ ταύτῃ συνελθόντων πατέρων τῷ μεγάλῳ Κυπριανῷ· ἀλλ' οὔτε ἐπὶ τοῖς αἱρετικοῖς ἐκράτησαν πᾶσιν, οὔτε ἐπὶ τοῖς σχισματικοῖς· ἡ γὰρ δευτέρα οἰκουμενικὴ σύνοδος, ὡς ἤδη εἴρηται, ὑπεξεῖλέ τινας τῶν αἱρετικῶν, καὶ ἄνευ βαπτίσματος δέχεσθαι τούτους θεσπίσασα, χριομένους μόνον τῷ θείῳ μύρῳ, καὶ ἀναθεματίζοντας τὴν οἰκείαν αἵρεσιν ἕκαστον, καὶ πάσας ἁπλῶς· καὶ διὰ τοῦτο οὐδὲ ἐξηγήθησαν αἱ γνῶμαι αὗται, ὡς μὴ ἀναγκαῖαι, οἷα μηδὲ ἐνεργοῦσαι, ἀλλά καὶ κατὰ σύνοψιν ἐγράφησαν.
PL 3, 1100Dゾナラス。さて、これらは、この会議に集った教父たちが大いなるキプリアヌスとともに述べた意見である。しかし、これらは異端者についても離教者についても、すべての場合に効力を保ち続けたわけではなかった。というのも、すでに述べたとおり、第二全地公会議は、異端者のうちのある者たちを除外し、彼らについては洗礼なしに受け入れるべきことを定めて、ただ聖なる香油によって塗油されること、そして各自が自分の異端と、およそすべての異端とを単純に呪詛することのみを求めたからである。それゆえ、これらの意見はもはや詳しく説明されることもなかった——必要でもなく、効力を持つものでもなかったからであり、むしろ概略としてのみ記された。