Epistola II 6.1
[0119] Caeterum ubi res factas et opificia quaedam consideranda dixi, hujusmodi rerum velut minus idonearum cursim protuli exempla, quando dixi: Neque planta id est quod agricola, neque scapha id quod navium faber (ex Athan., ibid., n. 18) .
PL 5, 120Bところで、私が造られた事物やある種の作品について考察すべきだと述べたとき、そうした事物を、いわば適切さに劣る実例として手短に提示した。すなわち私はこう言った。「植物は農夫と同じものではなく、舟も船大工と同じものではない」と(アタナシオス、同所、第18節より)。
Epistola II 6.2
Deinde congruis et naturae rei accommodatioribus magis sum immoratus, ac pluribus explicui quae veriora erant, variis excogitatis argumentis, quae et tibi in alia epistola exposui; in quibus mendacii convici etiam illud quod adversum me proferunt crimen, me scilicet non asserere Christum esse Deo consubstantialem.
PL 5, 120Bそれから、事柄の本性によりふさわしく適合する実例のほうに、より長く立ち止まり、いっそう真実であったことがらを、さまざまに考案した論拠によって、多く説き明かした。それらは別の書簡でもあなたに示した。その中で、彼らが私に対して持ち出す罪状——すなわち、私がキリストは神と実体を同じくすると主張していない、というもの——が偽りであることを論駁した。
Epistola II 6.3
Tametsi enim me nusquam in Scripturis sacris hoc vocabulum vel invenisse vel legisse dico, alia tamen argumenta quae subinde adjunxi, quaeque illi tacuerunt, ab hac intelligentia nihil discrepant.
PL 5, 121Aなぜなら、私はこの語を聖なる聖典のどこにも見出したことも読んだこともないと言うけれども、それに続けて私が付け加えた他の論拠は——それらについて彼らは沈黙しているが——、この理解といささかも異ならないからである。
Epistola II 6.4
Etenim prolem humanam, quae certe ejusdem generis est atque genitor, in exemplum attuli; dixique revera parentes hoc solum distingui a filiis, quod ipsi non sint filii; aut certe necessario futurum esse, ut neque parentes essent, neque filii.
PL 5, 121Aというのも、人間の子——これは確かに生む者と同じ種類のものである——を実例として挙げ、実のところ、親が子と区別されるのはただ、親自身が子ではないという一点においてのみであり、さもなければ必然的に、親も子もともに存在しないことになろう、と述べたからである。
Epistola II 6.5
Epistolam autem, ut praedixi, propter praesentem rerum conditionem, penes me non habeo: alioquin ipsa tibi quae tunc scripsi verba, imo et epistolae totius exemplum misissem, mittamque siquando mihi ejus copia fuerit.
PL 5, 121Aしかし、あらかじめ述べたとおり、現在の事情のために、その書簡は私の手元にない。さもなければ、その時私が書いた言葉そのものを、いや、その書簡全体の写しをこそ、あなたに送ったであろうし、いつか入手できたなら送るつもりである。
Epistola II 6.6
Memini porro plurimas ex rebus inter se cognatis similitudines adjecisse. Etenim plantam, sive ex semine sive ex radice succrescentem, aliam esse dixi ab eo unde pullulavit, tametsi ejusdem omnino sit naturae: similiter et fluvium e fonte manantem aliam formam ac nomen accipere, neque enim fontem fluvium, aut fluvium fontem appellari, sed haec duo esse; ac fontem quidem quasi patrem esse, fluvium vero esse aquam ex fonte.
PL 5, 121Bさらに、私は互いに同族である事物からの類比を数多く付け加えたことを覚えている。すなわち、種からであれ根からであれ育つ植物は、それが芽生えたもとのものとは別のものであると私は言ったが、それでいてまったく同じ本性のものである。同様に、泉から流れ出る川も別の形と名を受け取る。泉が川と呼ばれることも、川が泉と呼ばれることもなく、この両者はそれぞれ別のものだからである。そして泉はいわば父のようなものであり、川は泉から出た水である。
Epistola II 6.7
Verum haec quidem et similia, quae scripta sunt, se non videre quasi caecutientes dissimulant: duabus autem voculis incompositis, quasi lapidibus, eminus me conantur impetere: non advertentes rebus ignoratis et quae ut intelligantur interpretatione indigent, plerumque non modo aliena, sed et contraria exempla lucem afferre.
PL 5, 121Bしかしながら、彼らはこれらのことや、書かれた類する事柄を、あたかも目が見えないふりをして見ないことにしている。ところが、二つのばらばらな小さな語を、あたかも石であるかのように、遠くから私に投げつけようとしている。彼らは気づいていない——知られていない事柄、理解されるために解釈を必要とする事柄には、しばしば、似ても似つかぬ実例のみならず、正反対の実例さえもが光をもたらす、ということに。
Epistola II 6.8
6. Πλὴν ἐγὼ γενητά τινα φήσας νοεῖσθαι, τῶν μὲν τοιούτων ὡς ἀχρειοτέρων ἐξ ἐπιδρομῆς εἶπον παραδείγματα· ἐπεὶ μήτε τὸ φυτὸν ἔφην (adderem τὸ αὐτὸ εἶναι) τῷ γεωργῷ, μήτε τῷ ναυπηγῷ τὸ σκάφος.
PL 5, 121C6. しかし私は、あるものが造られたものとして理解されると述べた上で、そうしたいっそう不適切な事物について、実例を手短に挙げたにすぎない。というのも私は、植物は農夫と(ここに「同じものである」を補うべきであろう)、また舟は船大工と、同じものではない、と言ったからである。
Epistola II 6.9
Εἶτα τοῖς ἱκνουμένοι καὶ προσφυεστέροις ἐνδιέτριψα· καὶ πλέον διεξῆλθον περὶ τῶν ἀληθεστέρων, ποικίλα προσεπεξευρὼν τεκμήρια, ἅπερ καὶ σοι δι' ἄλλης ἐπιστολῆς ἔγραψα· ἐν οἷς ἤλεγξα, καὶ ὃ προφέρουσιν ἔγκλημα κατ' ἐμοῦ ψεῦδος ὂν, ὡς οὐ λέγοντος τὸν Χριστὸν ὉΜΟΟΥΣΙΟΝ εἶναι τῷ Θεῷ. εἰ γὰρ καὶ τὸ ὄνομα τοῦτό φημι μὴ εὑρηκέναι, μηδ' ἀνεγνωκέναι που τῶν ἁγίων Υραφῶν, ἄλλα γε τὰ ἐπιχειρήματα μου τὰ ἑξῆς, ἃ σεσιωπήκασι, τῆς διανοίας ταύτης οὐκ ἀπᾴδει. καὶ γὰρ ἀνθρωπείαν γονὴν παρεθέμην, δῆλον ὡς οὖσαν ὁμογενῆ· φήσας πάντως τοὺς γονεῖς μόνον ἑτέρους εἶναι τῶν τέκνον, ὅτι μὴ αὐτοὶ εἶεν τὰ τέκνα, ἢ μήτε γονεῖς ἀναγκαῖων ὑπάρχειν εἶναι μήτε τέκνα. καὶ τὴν μὲν ἐπιστολὴν, ὡς προεῖπον, διὰ τὰς περιστάσεις οὐκ ἔχω προκομίσαι, εἰ δ' οἶν αὐτά σοι τὰ τότε ῥήματα, μᾶλλον δὲ καὶ πάσης ἂν ἔπεμψα τὸ ἀντίγραφον· ὅπερ ἄν εὐπορήσω, ποίησω. οἶδα δὲ καὶ μέμνημαι, πλείονα προςθεὶς τῶν συγγενῶν ὁμοιώματα· καὶ γὰρ καὶ φυτὸν εἶπον ἀπὸ σπέρματος, ἢ ἀπὸ ῥίζης ἀνελθὸν, ἕτερον εἶναι τοῦ ὅθεν ἐβλάστησε, καὶ πάντως ἐκείνῳ καθέστηκεν ὁμοφυές. καὶ ποταμὸν ἀπὸ πηγῆς ῥέοντα, ἕτερον σχῆμα καὶ ὄνομα μετειληφέναι, μήτε γὰρ τὴν πηγὴν ποταμὸν, μήτε τὸν ποταμὸν πηγὴν λέγεσθαι, καὶ ἀμφότερα ὑπάρχειν, καὶ τὴν μὲν πηγὴν οἱονεὶ πατέρα εἶναι, τὸν δὲ πατερα εἶναι ἐκ τῆς πηγῆς ὕδωρ. ἀλλὰ ταῦτα μὲν καὶ τὰ τοιαῦτα μηδὲ ὁρᾷν γεγραμμένα, ἀλλ' οἱονεὶ τυφλώττειν ὑποκρίνονται. τοῖς δὲ δυσὶ ῥηματίοις ἀσυνθέτοις, καθάπερ λίθοις, μακρόθεν ἐπιχειροῦσί με βάλλειν· ἀγνοοῦντες ὡς τῶν ἀγνοουμένων, καὶ προ οὐ μόνον ἀλλοῖα πολλάκις, ἀλλὰ καὶ ὑπεναντία τεκμήρια γίνεται τῶν ἐπιζητουμένων δηλώματα. (Haec adducuntur a S. Athanasio in Ep. de Sententia Dionysii, num. XVIII, p. 255.) Ex eodem libro primo.
PL 5, 121Cそれから、より適切で、事柄によりふさわしく即した実例のほうに、私は長く立ち止まった。そして、いっそう真実に近いことがらについて、さまざまに新たに考案した証拠を用いて、より詳しく論じた。それらは、別の書簡によってあなたにも書き送った。その中で私は、彼らが私に対して持ち出す告発——私がキリストを神と実体を同じくする者であるとは言っていない、というもの——が偽りであることを論駁した。なぜなら、たとえ私がこの語を、聖なる聖典のどこにも見出したことも読んだこともないと言うとしても、それに続く私の他の論拠は——それについて彼らは沈黙しているが——、この理解といささかも異ならないからである。というのも、私は人間の子〔生まれ〕を引き合いに出したが、それは明らかに同じ種類のものだからである。そして、親が子と異なるのはただ、親自身が子ではないという一点においてのみであり、さもなければ必然的に親も子も存在しないことになる、と述べた。そして、あらかじめ述べたとおり、その書簡は事情のために持ち出すことができない。もしできるなら、その時の言葉そのものを、いやそれどころか書簡全体の写しをこそ、あなたに送ったであろう。それがかなうならば、そうするつもりである。そして私は、同族の事物からの類似をさらに多く付け加えたことを知っており、また覚えている。すなわち私は、種からであれ根からであれ育った植物は、それが芽生えたもとのものとは別のものであるが、それでいてそれとまったく同じ本性のものであると述べた。また、泉から流れる川は、別の形と名を受け取る。泉が川と呼ばれることも、川が泉と呼ばれることもなく、両者はそれぞれ別のものとして存在する。そして泉はいわば父のようなものであり、川は泉から出た水である〔底本は πατέρα。ラテン語訳に従い ποταμόν(川)と読む〕。しかし彼らは、これらのことや、書かれたこれに類することを、見ることさえせず、あたかも目が見えないふりをしている。そして、二つのばらばらな小さな語を、あたかも石であるかのように、遠くから私に投げつけようとしている。彼らは気づいていない——知られていない事柄については〔底本は続けて προ を刷るが、衍字と見て訳さない〕、しばしば、似ても似つかぬ証拠のみならず、正反対の証拠さえもが、求められていることがらを示すしるしとなる、ということに。(これらはアタナシオスの『ディオニュシオスの見解についての書簡』第18節、255頁に引かれている。)同じ第一巻より。