アレクサンドリアのディオニュシオスc. 190–265

Patristica — 教父文献 日本語対訳 › Patrologia Latina › Vol. 5 › Epistola II

Caput XIV 第XIV章

Dionysius of Alexandria · Epistola II · PL 5, 126C · 4 sectiones

Epistola II 14.1

1

[0125] Sicut mens nostra eructat a seipsa verbum (Athanas., ibid., n. 23) , ut ait Propheta: Eructavit cor meum verbum bonum (Psal. XLIV, 2) , estque utrumque alterum ab altero, proprium et ab altero disctinctum obtinens locum, cum illud quidem in corde, istud vero in lingua et ore commoretur et moveatur: neque tamen inter se distant, aut se invicem privantur; neque mens sine verbo est, neque verbum sine mente: sed mens verbum facit et in ipso apparet, ac verbum exhibet mentem in qua factum est.

PL 5, 126C

我々の精神が自らのうちから言葉を湧き出させるように(アタナシオス、同書、23節による)——預言者が「私の心は良き言葉を湧き出させた」(詩篇44:2)と言うとおりである——、両者は互いに異なるものであり、それぞれ固有の、他から区別された場を占めている。前者は心のうちに、後者は舌と口のうちに留まり動くのであるが、しかし両者は互いに隔たっているのでも、互いを欠いているのでもない。精神は言葉なしにはなく、言葉も精神なしにはない。むしろ精神は言葉を造り、その言葉のうちに現れる。そして言葉は、自らがそのうちで造られた精神を示すのである。

Epistola II 14.2

2

Et mens quidem est quasi verbum immanens, verbum vero mens prosiliens. Mens in verbum transit: verbum autem mentem in circumstantes auditores transmittit: sicque mens per verbum in auditorum animis insidet, simul ingressa cum verbo.

PL 5, 126C

精神はいわば内在する言葉であり、言葉はいわば飛び出す精神である。精神は言葉へと移り、言葉は精神を、周りにいる聞き手たちへと伝える。こうして精神は、言葉とともに入り込みながら、言葉を通して聞く者たちの魂のうちに宿るのである。

Epistola II 14.3

3

Ac mens quidem est quasi pater verbi in seipsa existens; verbum autem velut filius mentis, ne ante ipsam neque extra ipsam factum esse potest, sed cum ipsa existit, a qua germen et originem sumpsit. eodem quoque modo Pater maximus et mens universalis ante omnia Filium habet Verbum ac sermonem sui ipsius interpretem et angelum.

PL 5, 126C

精神は、自らのうちに存在しつつ、いわば言葉の父であり、言葉はいわば精神の子であって、精神に先立っても精神の外にあっても造られることはできず、精神とともに存在し、精神から芽生えと起源とを受け取ったのである。同じように、至高の父にして普遍的な精神は、万物に先立って子、すなわち言葉——御自身を解き明かす者にして使者である言葉——をお持ちなのである。

Epistola II 14.4

4

14. Ὡς γὰρ ὁ ἡμέτερος νοῦς ἐρεύγεται μὲν ἀφ' ἑαυτοῦ τὸν λόγον, ὡς εἶπεν ὁ προφήτης, Ἐξηρεύξατο ἡ καρδία μου λόγον ἀγαθόν· καὶ ἔστι μὲν ἑκάτερος ἕτερος θατέρου, ἴδιον καὶ τοῦ λοιποῦ κεχωρισμένον εἰληχὼς τόπον, ὁ μὲν ἐν τῇ καρδίᾳ, ὁ δὲ ἐπὶ τῆς γλώττης καὶ τοῦ στόματος οἰκῶν τε καὶ κινούμενος· οὐ μὴν διεστήκασιν, οὐδὲ καθάπαξ ἀλλήλων στέρονται, οὐδέ ἐστιν οὔτε ὁ νοῦς ἄλογος οὔτε ἄνους ὁ λόγος· ἀλλ' ὅγε νοῦς ποιεῖ τὸν λόγον ἐν αὐτῷ φανεὶς, καὶ ὁ λόγος δείκνυσι τὸν νοῦν, ἐν αὐτῷ γενόμενος. καὶ ὁ μὲν νοῦς ἐστιν οἶον λόγος ἐγκείμενος· ὁ δὲ λόγος νοῦς προπηδῶν· καὶ μεθίσταται μὲν ὁ νοῦς εἰς τὸν λόγον, ὁ δὲ λόγος τὸν νοῦν εἰς τοὺς ἀκροατὰς ἐγκυκλεῖ, καὶ οὕτως ὁ νοῦς διὰ τοῦ λόγου ταῖς τῶν ἀκουόντων ψυχαῖς ἐνιδρύεται. συνεισιὼν τῷ λόγῳ· καὶ ἔστιν ὁ μὲν οἷον πατὴρ ὁ νοῦς τοῦ λόγου, ὢν ἐφ' ἑαυτοῦ· ὁ δὲ καθάπερ υἱὸς ὁ λόγος τοῦ νοῦ, πρὸ ἐκείνου μὲν ἀδύνατον, ἀλλ' οὐδὲ ἔξωθέν ποθεν, σὺν ἐκείνῳ γενόμενος, βλαστήσας δὲ ἀπ' αὐτοῦ. οὕτως ὁ Πατὴρ ὁ μέγιστος καὶ καθόλου νοῦς πρῶτον τὸν Υἱὸν Λόγον ἑρμηνέα καὶ ἄγγελον ἑαυτοῦ ἔχει. (Adducuntur haec a S. Athanasio, ubi supra, n. 23, p. 259.) Circa medium operis.

PL 5, 127A

実に、我々の精神が自らのうちから言葉を湧き出させるように——預言者が「私の心は良き言葉を湧き出させた」と言ったとおりである——、両者はそれぞれ他と異なり、固有の、他から区別された場を占めている。一方は心のうちに、他方は舌と口の上に住まい動きながら。しかし両者は隔てられているのでも、まったく互いを欠いているのでもない。精神が言葉を欠くこともなく、言葉が精神を欠くこともない。むしろ精神は、自らのうちに現れつつ言葉を造り、言葉は、精神のうちに生じつつ精神を示す。精神はいわば内にある言葉であり、言葉はいわば飛び出す精神である。そして精神は言葉へと移り、言葉は精神を聞く者たちへとめぐらせる。こうして精神は、言葉とともに入りながら、言葉を通して聞く者たちの魂のうちに据えられるのである。精神は、自らのうちに在りつつ、いわば言葉の父であり、言葉はいわば精神の子であって、精神に先立つことはできず、また外のどこかからでもなく、精神とともに生じ、精神から芽生え出たのである。このように、至高の父にして普遍的な精神は、御自身を解き明かす者・使者である子・言葉を、何よりも先んじてお持ちなのである。(これらはアタナシオス、前掲書23節、259頁に引かれている。)作品の半ばあたり。