ディオニュシウス(ローマ司教)在位 259–268

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Epistola I 全文

Pope Dionysius · PL 5, 109D–116D

Caput I

第I章PL 5, 109D
1

Jam vero aequum fuerit disputare adversus eos, qui monarchiam quae augustissima est Ecclesiae Dei praedicatio, in tres quasdam virtutes ac separatas hypostases tresque deitates dividentes ac discindentes destruunt (Athan., ep. de decret. Nic. Syn. n. 26) .

PL 5, 109D

神の教会の最も荘厳な宣教である唯一の支配を、或る三つの力と、分離された諸々のヒュポスタシス(実体とも位格とも定めがたいギリシア語の術語)と、三つの神性とに分割し、切り離して破壊する者たちに対して論じることは、今や正当であろう(アタナシオス『ニカイア公会議の決定についての書簡』26)。

2

Audivi enim quosdam, quid apud vos divinum verbum praedicant et docent, hujus opinionis magistros esse qui quidem e diametro, ut ita loquar, Sabellii opinioni adversantur.

PL 5, 111A

実に私は、諸君のもとで神の言葉を宣べ伝え教えている或る者たちが、いわば正反対にサベリウスの説に対立する、この説の教師であると聞いた。

3

Hic enim blasphemat, ipsum Filium dicens esse Patrem, et vicissim: illi vero tres Deos quodam modo praedicant, dum sanctam unitatem in tres diversas hypostases ab invicem omnino separatas dividunt.

PL 5, 111A

実にこの者は、子その方を父であると言い、また逆に〔父を子であると言って〕冒涜する。しかし彼らは、聖なる一致を、互いに全く分離された三つの異なるヒュポスタシスへと分割することによって、ある意味で三人の神を宣べ伝えている。

4

Necesse est enim divinum Verbum Deo universorum esse unitum, et Spiritum sanctum in Deo manere et inhabitare; adeoque divinam Trinitatem in unum, quasi in quemdam verticem, hoc est in Deum universorum omnipotentem reduci atque colligi.

PL 5, 111A

実に、神的な言葉が万物の神と一致していること、そして聖なる霊が神のうちにとどまり宿ることは必然である。それゆえ、神的な三位一体が、いわばある頂点へと、すなわち全能なる万物の神へと、総括され集約されることも必然である。

5

Insipientis enim Marcionis doctrina, quae in tria principia monarchiam secat et dividit, diabolica sane est, non autem verorum Christi discipulorum, vel eorum quibus Salvatoris disciplina placet.

PL 5, 111A

愚かなるマルキオンの教え——唯一の支配を三つの原理へと切り分け分割するもの——は、実に悪魔的であって、真のキリストの弟子たちの教えではなく、救い主の教えを喜びとする者たちの教えでもない。

6

Hi enim probe norunt Trinitatem quidem in divina scriptura praedicari, tres autem esse Deos neque in veteri neque in novo Testamento doceri.

PL 5, 113A

実にこの者たちは、三位一体が神の聖典において宣べ伝えられている一方、三人の神が存在するとは旧約にも新約にも教えられていないことを、正しく知っている。

Caput II

第II章PL 5, 113A
1

Sed neque minus culpandi sunt, qui Filium opus esse existimant, et Dominum factum esse, sicut unum eorum quae vere facta sunt arbitrantur: cum illum genitum esse, ut congruit ac decet, non conditum aut factum, divina eloquia testentur.

PL 5, 113A

しかし、子を作品であるとみなし、主が造られた者であって、真に造られたものの一つであるかのように考える者たちも、劣らず非難されるべきである。神の御言葉は、この方がふさわしく相応しい仕方で生まれた者であって、創造された者でも造られた者でもないと証ししているからである。

2

Non levis igitur, sed maxima est impietas, Dominum aliquo modo manufactum dicere. Nam si factus est Filius erat tempus quando non erat: atqui fuit semper, si utique est, ut ipse declarat, in Patre (Joan. XIV, 12) .

PL 5, 113A

それゆえ、主をある仕方で人手によって造られた者と言うことは、軽微どころか、この上ない不敬である。なぜなら、もし子が造られたのであれば、彼が存在しなかった時があったことになるからである。しかし、彼自身が示すとおり彼が確かに父のうちにあるのだから(ヨハネ14:12)、常に存在していたのである。

  • ミーニュはヨハネ14章12節と刷るが、指されているのはヨハネ14章10-11節の言葉である。
3

Et si Christus verbum, sapientia et virtus est (haec enim Christum esse divinae docent Litterae, ut ipsi nostis), haec sane virtutes Dei sunt.

PL 5, 115A

そしてもしキリストが言葉であり知恵であり力であるならば(実に、神の文書はキリストがこれらであると教えている、諸君自身が知るとおり)、これらは実に神の力なのである。

4

Quocirca si factus est Filius, fuit tempus quando haec non erant: adeoque fuit tempus, quo sine his erat Deus: quod perabsurdum est.

PL 5, 115A

それゆえ、もし子が造られたのであれば、これらが存在しなかった時があったことになる。したがって、神がこれらなしに存在した時があったことになるが、これはこの上なく不合理である。

5

Sed quid pluribus de his apud vos disseram, viros Spiritu plenos, et apprime intelligentes quae sequuntur absurba ex illa sententia, quae Filium factum asserit?

PL 5, 115A

しかし、霊に満ちた人々であり、子が造られたと主張するあの学説から生じる不合理な帰結をよく理解している諸君の前で、これらのことについてこれ以上多くを論じて何になろうか。

6

Ad haec minime attendisse mihi videntur opinionis hujus duces; et idcirco a veritate prorsus aberrasse, qui aliter, quam quod sibi vult divina et prophetica Scriptura, explicant illud, Dominus creavit me principium viarum suarum (Prov. VIII, 22).

PL 5, 115A

この説の指導者たちは、これらのことに全く注意を払わなかったのだと私には思われる。それゆえ、神的で預言的な聖典が意図するところとは異なる仕方で、『主は、その道の初めとして私を創造された』(箴言8:22)というこの言葉を解釈し、真理から全く逸脱してしまったのである。

7

Non enim una est, ut scitis, verbi creavit significatio. Nam hoc in loco creavit idem est quod, praefecit operibus ab ipso factis, factis, inquam, per ipsum Filium. At hic creavit non perinde intelligendum est, atque fecit. Facere enim et creare inter se differunt.

PL 5, 115B

実に、諸君が知るとおり、『創造した』という語の意味は一つではない。なぜなら、この箇所における『創造した』とは、彼(父)自身によって造られた業、すなわち子その方を通して造られた業の上に、彼(子)を立てたということと同じだからである。しかしここでの『創造した』は、『造った』と同じように理解されるべきではない。造ることと創造することとは、互いに異なるのである。

8

Nonne ipse ille pater tuus possedit te, et fecit te, et creavit te? ait Moises in magno Deuteuronomii carmine (Deut., XXXII, 6) .

PL 5, 115B

「汝の父、その方こそ、汝を得、汝を造り、汝を創造したのではないか」と、モーセは申命記の大いなる歌の中で言う(申命記32:6)。

9

Sic etiam illos recte quis possit coarguere: O praecipites temerariique homines! ergone facta res est primogenitus omnis creaturae (Coloss. I, 15) , ex utero ante luciferum genitus (Psal. CIX, 3) , qui ut Sapientia dicit, Ante omnes colles gignit me (Prov. VIII, 28) ?

PL 5, 115B

このようにして、誰かがこう言って彼らを正しく論駁することもできよう。「おお、軽率で向こう見ずな人間たちよ。すべての被造物の初子(コロサイ1:15)、明けの明星に先立って胎より生まれ(詩篇109:3)、知恵が言うとおり『すべての丘に先立って、彼は私を生む』(箴言8:28)と言われるこの方が、造られたものだとでもいうのか。」

10

Denique multis in locis divinorum eloquiorum eum genitum dici, at nusquam factum Filium, quis legerit. Ex quibus aperte convincuntur falsa de Domini generatione opinari, qui divinam atque inexplicabilem ejus generationem factionem audent dicere.

PL 5, 115B

実に、神の御言葉の多くの箇所において、この方が生まれた者と言われている一方、子が造られた者とはどこにも言われていないことは、読んだ者であれば誰でも知るところである。この方の神的で言い表しがたい生成を『造ること』と呼ぶことをあえてする者たちは、これらのことによって、主の生成について誤った考えを抱いていることが明白に示される。

Caput III

第III章PL 5, 115C
1

Neque igitur admirabilis et divina unitas in tres divinitates est separanda, neque factionis vocabulo dignitas ac summa magnitudo Domini est diminuenda: sed credendum est in Deum Patrem omnipotentem, et in Christum Jesum, ejus Filium, et in Spiritum sanctum: Verbum autem Deo universorum esse unitum: quippe, Ego, inquit, et Pater unum sumus (Joan., X, 30) ; et, Ego in Patre, et Pater in me est (Joan., XIV, 10) .

PL 5, 115C

それゆえ、驚嘆すべき神的な一致は、三つの神性へと分離されてはならず、また『造られたもの』という呼称によって、主の尊厳と最高の偉大さが減じられてもならない。しかし、全能の父なる神と、その子キリスト・イエスと、聖なる霊とを信じ、また言葉が万物の神と一致していることを信じなければならない。なぜなら、彼は「私と父とは一つである」(ヨハネ10:30)、また「私は父のうちにあり、父は私のうちにある」(ヨハネ14:10)と言うからである。

2

Ita scilicet divina Trinitas et sancta monarchiae praedicatio integra servabitur. Ἑξῆς δ' ἂν εἰκότως λέγοιμι καὶ πρὸς τοὺς διαιροῦντας καὶ κατατέμνοντας καὶ ἀναιροῦντας τὸ σεμνότατον κήρυγμα τῆς Ἐκκλησίας τοῦ Θεοῦ, τὴν μοναρχίαν, εἰς τρεῖς δυνάμεις τινὰς καὶ μεμερισμένας ὑποστάσεις καὶ θεότητας τρεῖς. πέπυσμαι γὰρ εἶναί τινας τῶν παρ' ὑμῖν κατηχούντων καὶ διδασκόντων τὸν θεῖον λόγον, ταύτης ὑφηγητὰς τῆς φρονήσεως· οἳ κατὰ διάμετρον, ὡς ἔπος εἰπεῖν, ἀντίκεινται τῇ Σαβελλίου γνώμῃ. ὁ μὲν γὰρ βλασφημεῖ, αὐτὸν τὸν Υἱὸν εἶναι λέγων τὸν Πατέρα, καὶ ἔμπαλιν· οἱ δὲ τρεῖς Θεοὺς τρόπον τινὰ κηρύττουσιν, εἰς τρεῖς ὑποστάσεις ξένας. ἀλλήλων παντάπασι κεχωρισμένας, διαιροῦντες τὴν ἁγίαν μονάδα. ἡνῶσθαι γὰρ ἀνάγκη τῷ Θεῷ τῶν ὅλων τὸν Θεῖον λόγον, ἐμφιλοχωρεῖν δὲ τῷ Θεῷ καὶ ἐνδιαιτᾶσθαι δεῖ τὸ ἅγιον Πνεῦμα· ἤδη καὶ τὴν Θείαν Τριάδα εἰς ἕνα, ὥσπερ εἰς κορυφήν τινα (τὸν Θεὸν τῶν ὅλων τὸν παντοκράτορα λὲγῳ) συγκεφαλαιοῦσθαί τε καὶ συνάγεσθαι πᾶσα ἀνάγκη.

PL 5, 115C

このようにしてこそ、神的な三位一体と、唯一の支配についての聖なる宣教とは、損なわれることなく保たれるのである。次に私は、神の教会の最も荘厳な宣教である唯一の支配を、三つの或る力と、分かたれた諸々のヒュポスタシスと、三つの神性とへと分割し、切り刻み、破壊する者たちに対しても、しかるべく論じることができよう。実に私は、諸君のもとで神の言葉を宣べ伝え教えている或る者たちが、この説の首唱者であると聞いた。彼らは、いわば正反対にサベリウスの見解に対立している。すなわち、一方の者は、子その方を父であると言い、また逆に〔父を子であると言って〕冒涜する。他方の者たちは、互いに全く分離された三つの疎遠なヒュポスタシスへと聖なる一致を分割することによって、ある意味で三人の神を宣べ伝えている。実に、神的な言葉が万物の神と一致していることは必然であり、聖なる霊もまた神のうちにとどまり宿ることが必要である。そして今や、神的な三位一体が、いわばある頂点へと——すなわち万物の全能なる神を私は言うのだが——総括され集約されることも、全く必然である。

3

Μαρκίωνος γὰρ τοῦ ματαιόφρονος δίδαγμα, εἰς τρεῖς ἀρχὰς τῆς μοναρχίας τομὴν καὶ διαίρεσιν, παίδευμα ὃν διαβολικὸν, οὐχὶ δὲ τῶν ὄντως μαθητῶν τοῦ Χριστοῦ καὶ τῶν ἀρεσκομένων τοῖς τοῦ Σωτῆρος μαθήμασιν. οὗτοι γὰρ Τριάδα μὴν κηρυττομένην ὑπὸ τῆς θείας Γραφῆς σαφῶς ἐπίστανται, τρεῖς δέ Θεοὺς οὔτε Παλαιὰν οὔτε Καινὴν Διαθήκην κηρύττουσαν.

PL 5, 115C

実に、空しい思いを抱くマルキオンの教え——唯一の支配を三つの原理へと切断し分割するもの——は悪魔的な教えであって、真にキリストの弟子である者たちの教えでも、救い主の教えを喜びとする者たちの教えでもない。実にこの者たちは、三位一体が神の聖典によって宣べ伝えられている一方、三人の神は旧約にも新約にも宣べ伝えられていないことを、明らかに知っているのである。

4

Οὐ μεῖον δ' ἄν τις καταμέμφοιτο καὶ τοὺς ποίημα τὸν Υἱὸν εἶναι δοξάζοντας, καὶ γεγονέναι τὸν Κύριον ὥσπερ Ἕν τι ὄντως γενομένων, νομίζοντας· τῶν θείων λογίων γέννησιν. αὐτῷ τὴν ἁρμόττουσαν καὶ πρέπουσαν, ἀλλ' οὐχὶ πλάσιν τινὰ καὶ ποίησιν προσμαρτυρούντων. βλάσφημον οὖν οὐ τὸ τυχὸν, μέγιστον μὲν οὖν, χειροποίητον τρόπον τινὰ λέγειν τὸν Κύριον. εἰ γὰρ γέγονεν Υἱὸς, ἦν ὅτε οὐκ ἦν· ἀεὶ δὲ ἦν, εἴ γε ἐν τῷ Πατρί ἐστιν, ὡς αὐτός φησι. καὶ εἰ λόγος καὶ σοφία καὶ δύναμις ὁ Χριστός (ταῦτα γὰρ εἶναι τὸν Χριστὸν αἱ θεῖαι λέγουσι Γραφαὶ, ὥσπερ ἐπίστασθε)· ταῦτα δὲ δυνάμεις οὖσαι τοῦ Θεοῦ τυγχάνουσιν· εἰ τοίνυν γέγονεν ὁ Υἱὸς, ἦν ὅτε οὐκ ἦν ταῦτα. ἦν ἄρα καιρὸς, ὅτε χωρὶς τούτων ἦν ὁ Θεός· ἀτοπώτατον δὲ τοῦτο· καὶ τί ἂν ἐπὶ πλέον περὶ τούτων πρὸς ὑμᾶς διαλεγοίμην, πρὸς ἄνδρας πνευματοφόρους καὶ σαφῶς ἐπισταμένους τὰς ἀτοπίας τὰς ἐκ τοῦ ποίημα λέγειν τὸν Υἱὸν ἀνακυπτούσας, αἷς μοι δοκοῦσι μὴ προςεσχηκέναι τὸν νοῦν οἱ καθηγησάμενοι τῆς δόξης ταύτης καὶ διὰ τοῦτο κομιδῆ τοῦ ἀληθοῦς διημαρτηκέναι, ἑτέρως ἢ βούλεται ταύτῃ ἡ θεία καὶ προφητικὴ Γραφὴ, τὸ, Κύριος ἔκτισέ με ἀρχὴν ὁδῶν αὐτοῦ, ἐκδεξάμενοι. οὐ μία γὰρ ἡ τοῦ Ἔκτισεν, ὠς ἴστε, σημασία· Ἔκτισε γὰρ ἐνταῦθα ἀκουστέον, ἀντὶ τοῦ, Ἐπέστησε τοῖς ὑπ' αὐτοῦ γεγονόσιν ἔργοις, γεγονόσι δὲ δι' αὐτοῦ τοῦ Υἱοῦ· οὐχὶ δέ γε τὸ Ἐκτισε νῦν λέγοιτ' ἂν ἐπὶ τοῦ Ἐποίησε· διαφέρει γὰρ τοῦ ποιῆσαι τὸ κτίσαι.

PL 5, 115C

劣らず、子を作品であるとみなし、主が造られた者であって、真に生じたものの一つであるかのように考える者たちをも、誰かは非難することができよう。神の御言葉は、この方に相応しくふさわしい生まれを証ししているのであって、いかなる造形も製作も証ししてはいないのに、である。それゆえ、主をある仕方で人手によって造られた者と言うことは、並みの不敬ではなく、この上ない不敬である。なぜなら、もし子が造られたのであれば、彼が存在しなかった時があったことになるからである。しかし、彼自身が言うとおり、彼が父のうちにあるのであれば、常に存在していたのである。そしてもしキリストが言葉であり知恵であり力であるならば(実に、神の聖典はキリストがこれらであると告げている、諸君が知るとおり)、これらは実に神の力なのである。それゆえ、もし子が造られたのであれば、これらが存在しなかった時があったことになる。したがって、神がこれらなしに存在した時があったことになるが、これはこの上なく不合理である。しかし、霊に満ちた人々であり、子を作品と言うことから生じる不合理をよく理解している諸君の前で、これらのことについてこれ以上多くを論じて何になろうか。この説の指導者たちは、これらのことに全く注意を払わなかったのだと私には思われる。それゆえ、神的で預言的な聖典が意図するところとは異なる仕方で、『主は、その道の初めとして私を創造された』というこの言葉を解釈し、真理から全く逸脱してしまったのである。実に、諸君が知るとおり、『創造した』という語の意味は一つではない。なぜなら、この箇所における『創造した』とは、彼(父)自身によって造られた業、すなわち子その方を通して造られた業の上に、彼(子)を立てたということと同じだからである。しかしここでの『創造した』は、『造った』と同じように理解されるべきではない。造ることと創造することとは、互いに異なるのである。

5

Οὐκ αὐτὸς οὗτός σου πατὴρ ἐκτήσατό σε, καὶ ἐποίησέ σε, καὶ ἔκτισέ σε; τῇ ἐν τῷ Δευτερονομίῳ μεγάλῃ ὠδῇ ὁ Μωσῆς φησι. πρὸς οὓς καὶ εἴποι ἄν τις· Ὦ ῥιψοκίνδυνοι ἄνθρωποι· ποίημα ὁ πρωτότοκος πάσης στίσεως, ὁ ἐκ γαστρὸς πρὸ ἑωσφόρου γεννηθεὶς, ὁ εἰπὼν ὡς Σοφία, Πρὸ δὲ πάντων βουνῶν γεννᾷ με; καὶ πολλαχοῦ δὲ τῶν θείων λογίων γεγεννῆσθαι, ἀλλ' οὐ γεγονέναι τὸν Υἱὸν λεγόμενον εὕροι τις ἄν. ὑφ' ὧν καταφανῶς ἐλέγχονται τὰ ψεύδη περὶ τῆς τοῦ Κυρίου γεννήσεως ὑπολαμβάνοντες, οἱ ποίησιν, αὐτοῦ τὴν θείαν καὶ ἄῤῥητον γέννησιν λέγειν τολμῶντες.

PL 5, 116B

「汝の父、その方こそ、汝を得、汝を造り、汝を創造したのではないか」と、モーセは申命記の大いなる歌の中で言う。このような者たちに対して、誰かはこう言うこともできよう。「おお、軽率で向こう見ずな人間たちよ。すべての被造物の初子、明けの明星に先立って胎より生まれ、知恵が言うとおり『すべての丘に先立って、彼は私を生む』と言われるこの方が、造られたものだとでもいうのか。」そして実に、神の御言葉の多くの箇所において、子が生まれた者と言われている一方、造られた者とは言われていないことを、誰でも見出すであろう。この方の神的で言い表しがたい生成を『造ること』と呼ぶことをあえてする者たちは、これらのことによって、主の生成について誤った考えを抱いていることが明白に示される。

6

Οὔτ' οὖν καταμερίζειν χρὴ εἰς τρεῖς Θεότητας τὴν θαυμαστὴν καὶ θεὶαν Μονάδα οὔτε ποιήσει κωλύειν τὸ ἀξίωμα καὶ τὸ ὑπέρβαλλον μέγεθος τοῦ Κυρίου· ἀλλὰ πεπιστευκέναι εἰς Θεὸν πατέρα παντοκράτορα, καὶ εἰς Χριστὸν Ἰησοῦν, τὸν Υἱὸν αὐτοῦ, καὶ εἰς τὸ ἅγιον Πνεῦμα· ἡνῶσθαι δὲ νῷ Θεῷ τῶν ὅλων τὸν Λόγον· Ἐγὼ γὰρ, φησὶ, καὶ ὁ Πατὴρ ἕν ἐσμεν· καὶ ἐγὼ ἐν τῷ Πατρὶ, καὶ ὁ Πατὴρ ἐν ἐμοί. οὕτω γὰρ ἂν καὶ ἡ θεία Τριὰς, καὶ τὸ ἅγιον κήρυγμα τῆς μοναρχίας διασώζοιτο.

PL 5, 116B

それゆえ、驚嘆すべき神的な一致を三つの神性へと分割してはならず、また『造られたもの』という呼称によって、主の尊厳と類なき偉大さを妨げてもならない。しかし、全能の父なる神と、その子キリスト・イエスと、聖なる霊とを信じ、また言葉が万物の神と一致していることを信じなければならない。なぜなら、彼は「私と父とは一つである」、また「私は父のうちにあり、父は私のうちにある」と言うからである。このようにしてこそ、神的な三位一体と、唯一の支配についての聖なる宣教とは保たれるのである。

7

Extant haec apud S. Athanasium Epistola de Decretis Nicaenae Synodi, cap. XXVI, p. 231, ed. Benedictin.

PL 5, 116C

これらの文言は、聖アタナシオスの『ニカイア公会議の決定についての書簡』第26章、231頁(ベネディクト会版)に見られる。