Caput I
第I章PL 5, 119ANon enim erat tempus, quando Deus non erat Pater. Et in sequentibus (inquit Athanasius) profitetur Christum semper esse, ut pote verbum et sapientiam et virtutem.
PL 5, 119A神が父でなかった時はなかったからである。そして続く箇所で(とアタナシオスは言う)、キリストが言葉であり知恵であり力であるがゆえに常に存在することを公言している。
Caput II
第II章PL 5, 119ANeque vero Deus cum haec non peperisset postea Filium genuit: sed quia Filius non a se ipso, verum a Patre habet esse. Et post pauca de ipso Filio dicit:
PL 5, 119A神は、これらのものを生んでいなかった状態から、後になって子を生んだのではない。そうではなく、子はおのれ自身によってではなく、父から存在を得ているからである。そして少し後、この子自身について彼は言う。
Caput III
第III章PL 5, 119ACum sit splendor lucis aeternae, prorsus et ipse aeternus est. Luce enim semper existente manifestum est et splendorem semper exsistere: eo quippe lux esse intelligitur, quod splendeat, ac fieri nequit ut lux non luceat. Rursum enim ad exempla veniamus.
PL 5, 119A彼は永遠の光の光輝であるから、彼自身もまったく永遠である。光が常に存在する以上、光輝も常に存在することは明らかである。なぜなら、光が光であると理解されるのはまさに輝くという点によってであり、光が輝かないということはありえないからである。さて再び実例に立ち返ろう。
Si sol est, est quoque splendor, est et dies: horum si nihil est, multum abest ut sol adsit. Quod si sol aeternus esset, dies quoque numquam deficeret. Nunc autem (neque enim ita se res habet) dies sole incipiente incipit, ac desinente desinit.
PL 5, 119Aもし太陽があれば、光輝もあり、昼もある。これらのうちどれもなければ、太陽が現にあることからはほど遠い。もし太陽が永遠であったなら、昼も決して尽きることがなかったであろう。しかし実際には(事実そうではないので)、昼は太陽が始まるとともに始まり、太陽が終わるとともに終わる。
Deus autem aeterna lux est, quae neque incoepit, neque deficiet unquam. Ipsi ergo praelucet ac coexsistit aeternus splendor, qui sine initio exsistens et semper genitus, ante eum emicat, quique est ea sapientia, quae dicit, Ego eram qua gaudebat: et delectabar quotidie ante faciem ejus omni tempore (Prov. VIII, 30) . Et paulo post sermonem de eodem sic prosequitur:
PL 5, 119Bしかし神は永遠の光であり、始まったこともなければ、いつか終わることもない。それゆえ、永遠の光輝が神の御前に輝き、神と共に存在する。この光輝は、始まりなく存在し、常に生まれた者であって、神の御前に輝き出る。そしてこの光輝こそは、「私は彼が喜びとするところの者としてあった。日々、いかなる時にもその御顔の前で喜んでいた」(箴言8:30)と言う知恵である。そして少し後、同じ事柄についての言葉を次のように続けている。
Caput IV
第IV章PL 5, 119BCum ergo aeternus sit Pater, aeternus est et Filius, lumen de lumine. Ubi enim est genitor, est et proles. Si autem proles non est, quomodo et cujus potest esse genitor? Atqui ambo sunt, et semper sunt. Cum igitur Deus sit lux, Christus est splendor.
PL 5, 119B父が永遠であるからには、子もまた永遠であり、光からの光である。生む者があるところには、生まれた者もあるからである。もし生まれた者がなければ、どうして、また誰の生む者でありえようか。しかるに両者は存在し、常に存在する。それゆえ、神が光であるからには、キリストは光輝である。
Cum autem Spiritus sit, Spiritus enim, inquit, est Deus (Joan. IV, 24) ; congruenter rursum Christus vapor dicitur: Est enim, inquit, vapor virtutis Dei (Sap., VII, 25) . Rursumque dicit:
PL 5, 119Bまた、神は霊であるから——「神は霊である」(ヨハネ4:24)と言われているとおり——、それに応じて、キリストは再び「蒸気」と呼ばれる。「神の力の蒸気である」(知恵の書7:25)と言われているからである。そして再び彼は言う。
Caput V
第V章PL 5, 119BSolus autem Filius semper coexsistens Patri, et plenus eo qui est, ipse etiam est, cum sit ex Patre (ex Athan., ibid., n. 17) . [0118] 1. Οὐ γὰρ ἦν ὅτε ὁ Θεὸς οὐκ ἦν Πατήρ.
PL 5, 119Bしかし子のみは、常に父と共に存在し、「在る者」に満たされており、父から出ている以上、みずからもまた在るのである(アタナシオス、同所、第17節より)。1. 神が父でなかった時はなかったからである。
Καὶ τοῦτο οἶδεν (ait Athanasius statim post) ἐν τοῖς, ἑξῆς ἀεἱ τὸν Χριστὸν εἶναι, λόγον ὄντα, καί σοφίαν, καὶ δύναμιν. 2. Οὐ γὰρ δὴ τούτων ἄγονος ὢν Θεὸς, εἶτα ἐπαιδοποιήσατο, ἀλλ' ὅτι μὴ παρ' ἑαυτοῦ ὁ Υἱὸς, αλλ' ἐκ τοῦ Πατρὸς ἔχει τὸ εἶναι.
PL 5, 119Bそしてディオニュシオスは(とアタナシオスはただちに続けて言う)、続く箇所においてこのことを、すなわちキリストが言葉であり知恵であり力であるものとして常に存在することを知っている〔οἶδεν の主語は定かでない。ディオニュシオスと取った。「認めている」とも読める〕。2. 神はこれらのものに対して不毛でありながら後になって子をもうけたのではなく、そうではなく、子はおのれ自身によってではなく、父から存在を得ているからである。
Καὶ μετ' ὀλίγα (pergit dicere Athanasius) πάλιν περὶ τοῦ αὐτοῦ φησιν· 3. Ἀπαύγασμα δὲ ὢν φωτὸς ἀϊδίου, πάντως καὶ αὐτὸς ἀΐδιός ἐστιν. ὄντος γὰρ ἀεὶ τοῦ φωτὸς, δῆλον ὡς ἔστιν ἀεὶ τὸ ἀπαύγασμα. τούτῳ γὰρ, καὶ ὅτι φῶς ἐστι, τῷ καταυγάζειν νοεῖται, καὶ φῶς οὐ δύναται μὴ φωτίζον εἶναι. πάλιν γὰρ ἔλθωμεν ἐπὶ τὰ παραδείγματα. εἰ ἔστιν ἥλιος, ἔστιν ἡμέρα· εἰ τοιούτων μηδέν ἐστι, πολύ γε δεῖ καὶ παρεῖναι ἥλιον εἰ μὲν οὖν ἀΐδιος ὁ ἥλιος, ἄπαυστος ἂν ἦν καὶ ἡ ἡμέρα νῦν δὲ, οὐ γὰρ ἔστιν, ἀρξαμένου τε ἢρξατο, καὶ παυομένου παύεται. ὁ δέ γε Θεὸς αἰώνιόν ἐστι φῶς, οὔτε ἀρξάμενον, οὔτε λῆξόν ποτε. οὐκοῦν αἰώνιον πρόκειται, καὶ σύνεστιν αὐτῷ τὸ ἀπαύγασμα ἄναρχον καὶ ἀειγενὲς, προφαινόμενον αὐτοῦ, ὅπερ ἐστὶν ἡ λέγουσα σοφία, Ἐγὼ ἢμην ᾗ προσέχαιρε· καθ' ἡμέραν δὲ εὐφραινόμην ἐν προσώπῳ αὐτοῦ ἐν παντὶ καιρῷ.
PL 5, 120Aそして少し後(とアタナシオスは語り続ける)、彼は再び同じ事柄について言う。3. 永遠の光の光輝であるからには、彼自身もまったく永遠である。光が常に存在する以上、光輝も常に存在することは明らかだからである。というのも、光が光であるということは、まさに輝くという点によって理解されるのであり、輝かない光というものはありえないからである。さて再び実例に立ち返ろう。もし太陽があれば、昼もある。これらのうちいずれもなければ、太陽が現に存在するということからはほど遠い。もし太陽が永遠であったなら、昼も途絶えることがなかったであろう。しかし実際にはそうではないので、太陽が始まるとともに昼も始まり、太陽が終わるとともに昼も終わる。しかし神は永遠の光であって、始まったこともなければ、いつか終わることもない。それゆえ、始まりなく常に生まれた永遠の光輝が神のもとに据えられ、神と共に存在して、神の御前に輝き出ている。これこそは、「私は彼が喜びとするところの者としてあった。日々、いかなる時にもその御顔の前で喜んでいた」と言う知恵である。
Καὶ αὖθις ἐπάγει μετ' ὀλίγα (inquit Athanasius), περὶ τοῦ αὐτοῦ λέγων· 4. Ὄντος οὖν αἰωνίου τοῦ Πατρὸς, αἰώνιος ὁ Υἱός ἐστι, φῶς ἐκ φωτὸς ὤν· ὄντος γὰρ γονέως, ἔστι καὶ τέκνον· εἰ δὲ μὴ τέκνον εἴη, πῶς καὶ τίνος εἶναι δύναται γονεὺς; ἀλλ' εἰσὶν ἄμφω, καὶ εἰσὶν ἀεί.
PL 5, 120Bそして再び少し後で(とアタナシオスは言う)、同じことについて次のように付け加えて言う。4. それゆえ、父が永遠であるからには、子も永遠であり、光からの光である。生む者があるところには、生まれた者もあるからである。もし生まれた者がなければ、どうして、また誰の生む者でありえようか。しかるに両者は存在し、常に存在する。
Εἶτα πάλιν προστίθησι ταῦτα (Athanasius ait): Φωτὸς μὲν οὖν ὄντος τοῦ Θεοῦ. ὁ Χριστός ἐστιν ἀπαύγασμα. πνεύματος δὲ ὄντος· Πνεῦμα, γὰρ, φησὶν, ὁ Θεὸς· ἀναλόγως πάλιν ὁ Χριστὸς ἀτμὸς λέγεται· Ἀτμὸς, γάρ, φησὶν, ἐστι τῆς τοῦ Θεοῦ δυνάμεως.
PL 5, 120Bそれから再び(とアタナシオスは言う)彼はこれらを付け加える。神は光であるから、キリストは光輝である。また神は霊であるから——「神は霊である」と言われているとおり——、それに応じて、キリストは再び「蒸気」と呼ばれる。「神の力の蒸気である」と言われているからである。
Καὶ ἐκ τοῦ δευτέρου (inquit Athanasius) πάλιν φησί 5. Μόνος δὲ ὁ Υἱὸς ἀεὶ συνὼν τῷ Πατρὶ, καὶ τοῦ ὄντος πληρούμενος, καὶ αὐτὸς ἔστιν, ὢν ἐκ τοῦ Πατρός. Haec excitata sunt serie continua a S. Athanasio in Epistola de Sententia Dionysii, num. 15, p. 253, ed. Benedictin. Ex eodem libro primo.
PL 5, 120Bそして第二巻からも(とアタナシオスは言う)再び彼は言う。5. しかし子のみは常に父と共に存在し、「在る者」に満たされており、父から出ている以上、みずからもまた在るのである。これらは、アタナシオスがその『ディオニュシオスの見解についての書簡』第15節(ベネディクト会版253頁)において、連続した一続きのものとして引いたものである。同じ第一巻より。
Caput VI
第VI章PL 5, 120B[0119] Caeterum ubi res factas et opificia quaedam consideranda dixi, hujusmodi rerum velut minus idonearum cursim protuli exempla, quando dixi: Neque planta id est quod agricola, neque scapha id quod navium faber (ex Athan., ibid., n. 18) .
PL 5, 120Bところで、私が造られた事物やある種の作品について考察すべきだと述べたとき、そうした事物を、いわば適切さに劣る実例として手短に提示した。すなわち私はこう言った。「植物は農夫と同じものではなく、舟も船大工と同じものではない」と(アタナシオス、同所、第18節より)。
Deinde congruis et naturae rei accommodatioribus magis sum immoratus, ac pluribus explicui quae veriora erant, variis excogitatis argumentis, quae et tibi in alia epistola exposui; in quibus mendacii convici etiam illud quod adversum me proferunt crimen, me scilicet non asserere Christum esse Deo consubstantialem.
PL 5, 120Bそれから、事柄の本性によりふさわしく適合する実例のほうに、より長く立ち止まり、いっそう真実であったことがらを、さまざまに考案した論拠によって、多く説き明かした。それらは別の書簡でもあなたに示した。その中で、彼らが私に対して持ち出す罪状——すなわち、私がキリストは神と実体を同じくすると主張していない、というもの——が偽りであることを論駁した。
Tametsi enim me nusquam in Scripturis sacris hoc vocabulum vel invenisse vel legisse dico, alia tamen argumenta quae subinde adjunxi, quaeque illi tacuerunt, ab hac intelligentia nihil discrepant.
PL 5, 121Aなぜなら、私はこの語を聖なる聖典のどこにも見出したことも読んだこともないと言うけれども、それに続けて私が付け加えた他の論拠は——それらについて彼らは沈黙しているが——、この理解といささかも異ならないからである。
Etenim prolem humanam, quae certe ejusdem generis est atque genitor, in exemplum attuli; dixique revera parentes hoc solum distingui a filiis, quod ipsi non sint filii; aut certe necessario futurum esse, ut neque parentes essent, neque filii.
PL 5, 121Aというのも、人間の子——これは確かに生む者と同じ種類のものである——を実例として挙げ、実のところ、親が子と区別されるのはただ、親自身が子ではないという一点においてのみであり、さもなければ必然的に、親も子もともに存在しないことになろう、と述べたからである。
Epistolam autem, ut praedixi, propter praesentem rerum conditionem, penes me non habeo: alioquin ipsa tibi quae tunc scripsi verba, imo et epistolae totius exemplum misissem, mittamque siquando mihi ejus copia fuerit.
PL 5, 121Aしかし、あらかじめ述べたとおり、現在の事情のために、その書簡は私の手元にない。さもなければ、その時私が書いた言葉そのものを、いや、その書簡全体の写しをこそ、あなたに送ったであろうし、いつか入手できたなら送るつもりである。
Memini porro plurimas ex rebus inter se cognatis similitudines adjecisse. Etenim plantam, sive ex semine sive ex radice succrescentem, aliam esse dixi ab eo unde pullulavit, tametsi ejusdem omnino sit naturae: similiter et fluvium e fonte manantem aliam formam ac nomen accipere, neque enim fontem fluvium, aut fluvium fontem appellari, sed haec duo esse; ac fontem quidem quasi patrem esse, fluvium vero esse aquam ex fonte.
PL 5, 121Bさらに、私は互いに同族である事物からの類比を数多く付け加えたことを覚えている。すなわち、種からであれ根からであれ育つ植物は、それが芽生えたもとのものとは別のものであると私は言ったが、それでいてまったく同じ本性のものである。同様に、泉から流れ出る川も別の形と名を受け取る。泉が川と呼ばれることも、川が泉と呼ばれることもなく、この両者はそれぞれ別のものだからである。そして泉はいわば父のようなものであり、川は泉から出た水である。
Verum haec quidem et similia, quae scripta sunt, se non videre quasi caecutientes dissimulant: duabus autem voculis incompositis, quasi lapidibus, eminus me conantur impetere: non advertentes rebus ignoratis et quae ut intelligantur interpretatione indigent, plerumque non modo aliena, sed et contraria exempla lucem afferre.
PL 5, 121Bしかしながら、彼らはこれらのことや、書かれた類する事柄を、あたかも目が見えないふりをして見ないことにしている。ところが、二つのばらばらな小さな語を、あたかも石であるかのように、遠くから私に投げつけようとしている。彼らは気づいていない——知られていない事柄、理解されるために解釈を必要とする事柄には、しばしば、似ても似つかぬ実例のみならず、正反対の実例さえもが光をもたらす、ということに。
6. Πλὴν ἐγὼ γενητά τινα φήσας νοεῖσθαι, τῶν μὲν τοιούτων ὡς ἀχρειοτέρων ἐξ ἐπιδρομῆς εἶπον παραδείγματα· ἐπεὶ μήτε τὸ φυτὸν ἔφην (adderem τὸ αὐτὸ εἶναι) τῷ γεωργῷ, μήτε τῷ ναυπηγῷ τὸ σκάφος.
PL 5, 121C6. しかし私は、あるものが造られたものとして理解されると述べた上で、そうしたいっそう不適切な事物について、実例を手短に挙げたにすぎない。というのも私は、植物は農夫と(ここに「同じものである」を補うべきであろう)、また舟は船大工と、同じものではない、と言ったからである。
Εἶτα τοῖς ἱκνουμένοι καὶ προσφυεστέροις ἐνδιέτριψα· καὶ πλέον διεξῆλθον περὶ τῶν ἀληθεστέρων, ποικίλα προσεπεξευρὼν τεκμήρια, ἅπερ καὶ σοι δι' ἄλλης ἐπιστολῆς ἔγραψα· ἐν οἷς ἤλεγξα, καὶ ὃ προφέρουσιν ἔγκλημα κατ' ἐμοῦ ψεῦδος ὂν, ὡς οὐ λέγοντος τὸν Χριστὸν ὉΜΟΟΥΣΙΟΝ εἶναι τῷ Θεῷ. εἰ γὰρ καὶ τὸ ὄνομα τοῦτό φημι μὴ εὑρηκέναι, μηδ' ἀνεγνωκέναι που τῶν ἁγίων Υραφῶν, ἄλλα γε τὰ ἐπιχειρήματα μου τὰ ἑξῆς, ἃ σεσιωπήκασι, τῆς διανοίας ταύτης οὐκ ἀπᾴδει. καὶ γὰρ ἀνθρωπείαν γονὴν παρεθέμην, δῆλον ὡς οὖσαν ὁμογενῆ· φήσας πάντως τοὺς γονεῖς μόνον ἑτέρους εἶναι τῶν τέκνον, ὅτι μὴ αὐτοὶ εἶεν τὰ τέκνα, ἢ μήτε γονεῖς ἀναγκαῖων ὑπάρχειν εἶναι μήτε τέκνα. καὶ τὴν μὲν ἐπιστολὴν, ὡς προεῖπον, διὰ τὰς περιστάσεις οὐκ ἔχω προκομίσαι, εἰ δ' οἶν αὐτά σοι τὰ τότε ῥήματα, μᾶλλον δὲ καὶ πάσης ἂν ἔπεμψα τὸ ἀντίγραφον· ὅπερ ἄν εὐπορήσω, ποίησω. οἶδα δὲ καὶ μέμνημαι, πλείονα προςθεὶς τῶν συγγενῶν ὁμοιώματα· καὶ γὰρ καὶ φυτὸν εἶπον ἀπὸ σπέρματος, ἢ ἀπὸ ῥίζης ἀνελθὸν, ἕτερον εἶναι τοῦ ὅθεν ἐβλάστησε, καὶ πάντως ἐκείνῳ καθέστηκεν ὁμοφυές. καὶ ποταμὸν ἀπὸ πηγῆς ῥέοντα, ἕτερον σχῆμα καὶ ὄνομα μετειληφέναι, μήτε γὰρ τὴν πηγὴν ποταμὸν, μήτε τὸν ποταμὸν πηγὴν λέγεσθαι, καὶ ἀμφότερα ὑπάρχειν, καὶ τὴν μὲν πηγὴν οἱονεὶ πατέρα εἶναι, τὸν δὲ πατερα εἶναι ἐκ τῆς πηγῆς ὕδωρ. ἀλλὰ ταῦτα μὲν καὶ τὰ τοιαῦτα μηδὲ ὁρᾷν γεγραμμένα, ἀλλ' οἱονεὶ τυφλώττειν ὑποκρίνονται. τοῖς δὲ δυσὶ ῥηματίοις ἀσυνθέτοις, καθάπερ λίθοις, μακρόθεν ἐπιχειροῦσί με βάλλειν· ἀγνοοῦντες ὡς τῶν ἀγνοουμένων, καὶ προ οὐ μόνον ἀλλοῖα πολλάκις, ἀλλὰ καὶ ὑπεναντία τεκμήρια γίνεται τῶν ἐπιζητουμένων δηλώματα. (Haec adducuntur a S. Athanasio in Ep. de Sententia Dionysii, num. XVIII, p. 255.) Ex eodem libro primo.
PL 5, 121Cそれから、より適切で、事柄によりふさわしく即した実例のほうに、私は長く立ち止まった。そして、いっそう真実に近いことがらについて、さまざまに新たに考案した証拠を用いて、より詳しく論じた。それらは、別の書簡によってあなたにも書き送った。その中で私は、彼らが私に対して持ち出す告発——私がキリストを神と実体を同じくする者であるとは言っていない、というもの——が偽りであることを論駁した。なぜなら、たとえ私がこの語を、聖なる聖典のどこにも見出したことも読んだこともないと言うとしても、それに続く私の他の論拠は——それについて彼らは沈黙しているが——、この理解といささかも異ならないからである。というのも、私は人間の子〔生まれ〕を引き合いに出したが、それは明らかに同じ種類のものだからである。そして、親が子と異なるのはただ、親自身が子ではないという一点においてのみであり、さもなければ必然的に親も子も存在しないことになる、と述べた。そして、あらかじめ述べたとおり、その書簡は事情のために持ち出すことができない。もしできるなら、その時の言葉そのものを、いやそれどころか書簡全体の写しをこそ、あなたに送ったであろう。それがかなうならば、そうするつもりである。そして私は、同族の事物からの類似をさらに多く付け加えたことを知っており、また覚えている。すなわち私は、種からであれ根からであれ育った植物は、それが芽生えたもとのものとは別のものであるが、それでいてそれとまったく同じ本性のものであると述べた。また、泉から流れる川は、別の形と名を受け取る。泉が川と呼ばれることも、川が泉と呼ばれることもなく、両者はそれぞれ別のものとして存在する。そして泉はいわば父のようなものであり、川は泉から出た水である〔底本は πατέρα。ラテン語訳に従い ποταμόν(川)と読む〕。しかし彼らは、これらのことや、書かれたこれに類することを、見ることさえせず、あたかも目が見えないふりをしている。そして、二つのばらばらな小さな語を、あたかも石であるかのように、遠くから私に投げつけようとしている。彼らは気づいていない——知られていない事柄については〔底本は続けて προ を刷るが、衍字と見て訳さない〕、しばしば、似ても似つかぬ証拠のみならず、正反対の証拠さえもが、求められていることがらを示すしるしとなる、ということに。(これらはアタナシオスの『ディオニュシオスの見解についての書簡』第18節、255頁に引かれている。)同じ第一巻より。
Caput VII
第VII章PL 5, 122B[0121] Superius dictum est Deum esse fontem bonorum omnium, Filius vero dictus est fluvius ab ipso emanans: verbum quippe est mentis emanatio, et, ut humano more loquar, ex corde per os emittitur.
PL 5, 122B先に、神はあらゆる善きものの泉であると述べられ、子はその泉から流れ出る川であると言われた。言葉とはまさに精神の発出であり、人間の仕方で言うならば、心から口を通して送り出されるものだからである。
Mens vero, quae per linguam prosilit, alia est à verbo quod in corde existit. Hoc enim postquam illam praemisit, remanet, estque quale antea erat: illa vero praemissa avolat et circumquaque fertur; et sic utrumque in utroque est, tametsi aliud ab altero, et unum sunt, licet duo sint: sic namque Pater et Filius unum esse et in se invicem esse dicti sunt.
PL 5, 122Bしかし、舌を通して飛び出す精神は、心のうちにある言葉とは別のものである。というのも、言葉は、精神を先に送り出したのちもとどまり続け、以前と同じさまであり続けるが、先に送り出された精神のほうは飛び去って、あらゆる方向へと運ばれていくからである。そしてこのように、両者は互いのうちにあり、一方は他方とは別のものでありながら、二つでありつつ一つである。実に、父と子もこのように、一つであり、互いのうちに存在すると言われてきたのである。
7. Προείρηται μὲν οὖν, ὅτι πηγὴ τῶν ἀγαθῶν ἁπάντων ἐστὶν ὁ Θεός. ποταμὸς δὲ ὑπ' (for. ἀπ') αὐτοῦ προχεόμενος, ὁ Υἱὸς ἀναγέγραπται· ἀπόῤῥοια γὰρ νοῦ λόγος, καὶ ὡς ἐπ' ἀνθρώπων εἰπεῖν, ἀπο καρδίας διὰ στόματος ἐξοχετεύεται, ἕτερος γενόμενος τοῦ ἐν καρδίᾳ λόγου, ὁ διὰ γλώσσης νοῦς προπηδῶν. ὁ μὲν γὰρ ἔμεινε προπέμψας, καὶ ἔστιν οἷος ἦν. ὁ δὲ ἐξέπτη προπεμφθεὶς, καὶ φέρεται πανταχοῦ. καὶ οὕτως ἐστὶν ἑκάτερος ἐν ἑκατέρῳ ἕτερος ὢν θατέρου· καὶ ἕν εἰσιν, ὄντες δύο. οὕτω γὰρ καὶ ὁ Πατὴρ καὶ ὁ Υἱὸς ἓν, καὶ ἐν ἀλλήλοις ἐλέχθησαν εἶναι. (Allata haec a S. Athanasio in Epist. de Sententia Dionysii, n. XXIII, p. 259.) Ex secundo libro.
PL 5, 123A7. さて、あらゆる善きものの泉は神であると、すでに述べられた。神によって(あるいは「神から」)流れ出る川は、子であると記されている。言葉とは精神の発出であり、人間について言うならば、心から口を通して注ぎ出されるものであって、心のうちにある言葉とは別のものとなった、舌を通して前へ跳び出す精神である。実に、一方は前に送り出したのちもとどまり、以前あったとおりのものであり続ける。他方は前に送り出されて飛び去り、あらゆるところへと運ばれていく。そしてこのように、両者は互いのうちにありながら、一方は他方とは別のものであり、二つでありながら一つである。実に、父と子もこのように一つであり、互いのうちに存在すると言われてきた。(これらはアタナシオスの『ディオニュシオスの見解についての書簡』第23節、259頁に引かれている。)第二巻より。
Caput VIII
第VIII章PL 5, 124A[0123] Singula nomina a me prolata se invicem nec separari queunt, nec dividi (ex Athanas. ibid., n. 17) . Patrem dixi, et prius quam Filii mentionem facerem, jam eum in Patre significavi.
PL 5, 124A私が挙げた個々の名は、互いに切り離すことも分かつこともできない(アタナシオス、同所、第17節より)。私は父と言ったが、子について言及するより前に、すでに父のうちに子を示していた。
Filium adjunxi, ac Pater, etiamsi eum non prius nominassem, jam omnino in Filio comprehensus fuerat. Spiritum sanctum addidi: sed simul unde et per quem processerit subtexui.
PL 5, 124A私は子を付け加えたが、たとえ私が父をあらかじめ名指していなかったとしても、父はすでに子のうちにまったく含まれていたのである。私は聖なる霊を加えたが、同時にそれがどこから、また誰を通して発出したかをも書き添えた。
Illi autem ignorant, neque Patrem, qua pater est, a Filio alienari posse: nam illud nomen causa est evidens cohaerentiae et conjunctionis: neque Filium a Patre separari; hoc namque vocabulum pater communicationem indicat.
PL 5, 124Aしかし彼らは知らない——父は、父であるかぎりにおいて、子から疎遠になることはあり得ず、この名はまさに結合と連結の明白な根拠である、ということを。また子も父から切り離されることはない。なぜなら「父」というこの語は、交わりを示すものだからである。
Est et in manibus illorum Spiritus, qui neque a mittente, neque a ferente divelli potest. Quomodo igitur ego, qui talibus utor nominibus, illa a se invicem separata et omnino divisa existimem? Paucis interjectis addit:
PL 5, 124Aまた彼らの手のうちにも霊があるが、この霊は、送る者からも、それを運ぶ者からも引き離されることはできない。それゆえ、このような名を用いる私が、どうしてこれらを互いに分離し、まったく分かたれたものと考えるだろうか。数語を挟んで、彼は付け加える。
Caput IX
第IX章PL 5, 124AIta quidem unitatem indivisibilem in Trinitatem dilatamus, et rursum Trinitatem quae minui nequit, in unitatem contrahimus. 8.
PL 5, 124Aこのようにして我々は、分割されえない一なるものを三なるものへと押し広げ、また逆に、減じることのできない三なるものを一なるものへと収縮させるのである。8.
Τῶν ὑπ' ἐμοῦ λεχθέντων ὀνομάτων ἕκαστον ἀχώριστόν ἐστι καὶ ἀδιαίρετον τοῦ πλησίον· Πατέρα εἶπον, καὶ πρὶν ἐπαγάγω τὸν Υἱὸν, ἐσήμανα καὶ τοῦτον ἐν τῷ Πατρί Υἱὸν ἐπήγαγον· εἰ καὶ μὴ προειρήκειν τὸν Πατέρα, πάντως ἂν ἐν τῷ Υἱῷ προείληπτο. ἅγιον Πνεῦμα προσέθηκα· ἀλλ' ἅμα καὶ πόθεν καὶ διὰ τίνος ἧκεν ἐφήρμοσα. οἱ δὲ οὐκ ἴσασιν ὅτι μήτε ἀπηλλοτρίωται Πατὴρ Υἱοῦ, ἧ πατὴρ, προκαταρκτικὸν γάρ ἐστι τῆς συναφείας τὸ ὄνομα. οὔτε ὁ Υἱὸς ἀπῴκισται τοῦ Πατρός· ἡ γὰρ ΠΑΤΗΡ προσηγορία δηλοῖ τὴν κοινωνίαν ἔν τε ταῖς χερσὶν αὐτῶν ἐστι τὸ Πνεῦμα, μήτε τοῦ πέμποντος, μήτε τοῦ φέροντος, δυνάμενον στέρεσθαι· πῶς οὖν ὁ τούτοις χρώμενος τοῖς ὀνόμασι, μεμερίσθαι ταῦτα καὶ ἀφωρίσθαι παντελῶς ἀλλήλων οἴομαι; Καὶ μετ' ὀλίγα (inquit Athanasius), ἐπάγει λέγων' 9.
PL 5, 124A私が述べた名のそれぞれは、その隣にあるものから切り離すことも、分かつこともできない。私は父と言ったが、子を導き入れるより前に、すでにこの子をも父のうちに示していた。私は子を導き入れたが、たとえ父をあらかじめ言っていなかったとしても、まったく子のうちにあらかじめ含まれていたであろう。私は聖なる霊を加えたが、それがどこから、また誰を通して来たかを同時に結びつけた。しかし彼らは知らない——父は、父であるかぎりにおいて子から疎遠になっておらず、この名はまさに結合の端緒となるものだからである、ということを。子もまた父から離れ住んではいない。なぜなら「父」という呼び名は交わりを示すからである。そして彼らの手のうちにも霊があるが、それは送る者からも、運ぶ者からも奪われることはできない。それならば、これらの名を用いる私が、どうしてこれらが互いにまったく分けられ、隔てられたものだと考えるだろうか。そして少し後で(とアタナシオスは言う)、彼は付け加えて言う。9.
Οὕτω μὲν ἡμεῖς εἴς τε τὴν ΤΡΙΑΔΑ τὴν μονάδα πλατύνομεν ἀδιαίρετον, καὶ τὴν ΤΡΙΑΔΑ πὰλιν ἀμείωτον εἰς τὴν μονάδα συγκεφαλαιούμεθα. (Adducuntur haec ab Athanasio, ubi supra, n. XVII, p. 254.) Ex eodem libro secundo.
PL 5, 124Bこのようにして我々は、分割されえない一なるものを三なるものへと押し広げ、また減じることのない三なるものを、再び一なるものへと収め束ねるのである。(これらはアタナシオスによって、前掲箇所、第17節、254頁に引かれている。)同じ第二巻より。
Caput X
第X章PL 5, 124B[0123] Si quis autem calumniator, eo quod Deum omnium factorem et creatorem dixi, putet me etiam Christi creatorem dixisse, advertat me prius Patrem ipsum appellasse; quo in vocabulo simul enuntiatus est et Filius (ex Athanas., ibid., n. 20) .
PL 5, 124Bしかし、もし何らかの中傷者が、私が神を万物の作り主にして創造主と言ったことから、私がキリストの創造主とも言ったのだと思うならば、その者は、私がまず神を父と呼んだことに気づくべきである。この呼び名のうちには、子もまた同時に言い表されているのである(アタナシオス、同書、20節による)。
Postquam enim Patrem dixi factorem, subdidi: Neque pater eorum est, quorum est factor, si proprie is pater esse intelligatur qui genuit (latitudinem enim vocabuli hujus, pater, in sequentibus expendemus): neque factor pater, si solus opifex factor dicatur.
PL 5, 124B実に私は、父を作り主と言った後で、こう付け加えた。「もし父とは本来、生んだ者であると理解されるならば、彼は自分が作った者たちの父ではない(この『父』という語の広がりについては、後に続く箇所で吟味することにする)。また、もし造り主のみが作り主と呼ばれるとすれば、父は作り主ではない。」
Apud Graecos enim qui sapientes sunt, suorum librorum factores vocantur. Apostolus quoque ait: Factor legis (Rom., II, 13; Jac., IV, 12) .
PL 5, 124B「実にギリシャ人たちのもとでは、知恵ある者たちが自らの書物の作り主と呼ばれる。使徒もまた、『律法の作り主』と言っている(ローマ2:13;ヤコブ4:12)。」
Rerum etiam intrinsecarum, cujusmodi sunt virtus et vitium, factores nuncupantur, quemadmodum dixit Deus: Expectavi ut faceret judicium, fecit autem iniquitatem (Isa., 5, 7) . 10.
PL 5, 124B「また、徳と悪徳のような内なる事柄についても、〔人は〕作り主と呼ばれる。神が言われたとおりである。『私は彼が裁きを行うのを待ち望んだが、彼は不義を行った』(イザヤ5:7)。」
Ἐὰν δέ τις τῶν συκοφαντῶν, ἐπειδὴ τῶν ἁπάντων ποιητὴν τὸν Θεὸν καὶ δημιουργὸν εἶπον, οἴηταί με καὶ τοῦ Χριστοῦ λέγειν, ἀκουσάτω μου πρότερον Πατέρα φήσαντος αὐτὸν, ἐν ᾧ καὶ ὁ υἱὸς προσγέγραπται· μετὰ γὰρ τὸ εἰπεῖν Πατέρα ποιητὴν ἐπαγήοχα· Καὶ οὔτε πατήρ ἐστιν ὧν ποιητὴς, εἰ κυρίως ὁ γεννήσας ΠΑΤΗΡ ἀκοὺοιτο· τὴν γὰρ πλατύτητα τῆς τοῦ ΠΑΤΡΟΣ προσηγορίας ἐν τοῖς ἑξῆς ἐπεξεργασόμεθα. οὔτε ποιητὴς ὁ πατὴρ, εἰ μόνος ὁ χειροτέχνης ποιητὴς λέγοιτο. παρ' Ἕλλησι γὰρ ποιηταὶ καὶ τῶν ἰδίων καλοῦνται λόγων οἱ σόφοι. καὶ « ποιητὴς, » ὁ Ἀπόστολος εἶπε, « νόμου. » καὶ τῶν ἐγκαρδίων γὰρ, ἀρετῆς ἢ κακίας ποιηταὶ καθίστανται, ὡς εἶπεν, ὁ Θεος· Ἒμεινα τοῦ ποιῆσαι κρίσιν, ἐποίησε δὲ ἀνομίαν. (Adducta haec a S. Athanasio, ubi supra, n. XX, p.
PL 5, 125Aしかし、もし中傷者たちのうちの誰かが、私が万物の作り主にして創造主として神を言い表したことから、私がキリストについても同じことを言っているのだと思うならば、その者はまず、私が神を父と呼んでいたことを聞くがよい。その呼び名のうちには、子もまた同時に書き記されているのである。実に私は、父を作り主と言った後で、こう付け加えたのである。「生んだ者こそが本来父と呼ばれるのであれば、〔神は〕自分が作った者たちの父ではない——父というこの呼び名の広がりについては、後に続く箇所で詳しく論じることにする。また、職人のみが作り主と呼ばれるのだとすれば、父は作り主ではない。実にギリシャ人たちのもとでは、知恵ある者たちも自らの言葉の作り主と呼ばれる。そして使徒は『律法の作り主』と言った。心のうちなる事柄、すなわち徳や悪徳についても、〔人は〕その作り主とされる。神が言われたとおりである。『私は彼が裁きを行うのを待ち望んだが、彼は不法を行った。』」(この一節はアタナシオス、前掲書20節、〔底本では出典注記がここで切れ、次節に続く〕
257.) Addit Athanasius, n. 21, Dionysium, Quod Deum Christi factorem dixisset, reprehendentibus, diversa responsa dedisse, quibus se purgaret, dicens.
PL 5, 126A257頁に引かれている。)アタナシオスは21節でこう付け加えている。ディオニュシオスは、神をキリストの作り主と言ったことで非難する者たちに対し、自らを弁明するために様々な返答をした、と述べて、こう言う。
Caput XI
第XI章PL 5, 126A[0125] Neque sic reprehendendum esse hoc dictum; se enim factoris nomine usum esse dicit propter carnem quam verbum assumpserat, quae utique facta est. Quod si quis illud de Verbo dictum fuisse suspicetur, et id quoque remota contentione audiendum erat.
PL 5, 126Aこの言い分はこのように非難されるべきではない。実に彼は、言葉が受け取った肉のゆえに作り主という名を用いたのだと言う——その肉はまさしく造られたものだからである。しかし、もし誰かがそれが言葉について語られたのだと疑うならば、それもまた、争いを離れて聞かれるべきであった。
Sicut enim Verbum rem factam esse non sentio; ita nec Deum factorem, sed patrem ejus dico. Sed et si quando de Filio disserens, obiter Deum factorem dixero, neque defensione careat haec locutio.
PL 5, 126A実に私は、言葉が造られたものであるとは考えない。それゆえ私は、神をその作り主とではなく、その父であると言うのである。しかし、もし私が子について論じるうちに、たまたま神を作り主と言うことがあったとしても、この言い方も弁明を欠くことはない。
Nam sapientes apud Graecos librorum suorum factores se nuncupant, tametsi iidem librorum suorum patres sunt. Divina autem Scriptura motuum qui ex corde prodeunt, nos factores vocat, cum nos factores legis et judicii et justitiae dicit. 11.
PL 5, 126A実にギリシャ人たちのもとで、知恵ある者たちは自らを自らの書物の作り主と呼ぶ。彼らはまた同時に自らの書物の父でもあるにもかかわらず、そうなのである。また神の聖典は、心から生じる動きについて我々を作り主と呼ぶ。すなわち、我々を律法と裁きと正義との作り主と言うときである。
Μηδ' οὕτως ἐπιλήψιμον εἶναι τὸν λόγον· εἰρηκέναι γὰρ ποιητήν φησι διὰ τὴν σάρκα, ἣν ἀνέλαβε, γενητὴν οὖσαν αὐτὴν, ὁ Λόγος.
PL 5, 126Aこの言い分もまた、非難されるべきではない。すなわち、言葉が受け取った肉——それは造られたものである——のゆえに、〔神を〕作り主と呼んだのだ、と彼は言うのである。
Εἰ δὲ καὶ περὶ τοῦ λόγου τις ὑπονοήσοι τοῦτο λελέχθαι, καὶ οὔτως ἔπρεπεν αὐτοὺς ἀφιλονείκως ἀκοῦσαι. ὡς γὰρ οὐ ποίημα φρονῶ τὸν Λόγον, καὶ οὐ ποιητὴν, ἀλλὰ πατέρα τὸν Θεὸν αὐτοῦ λέγω. καὶ κᾂν ἐξ ἐπιδρομῆς εἴπω ποιητὴν τὸν Θεὸν διηγούμενος περὶ τοῦ Υἱοῦ, ἀλλὰ καὶ οὕτως ἀπολογήσασθαι δυνατόν. ποιητὰς γὰρ τῶν ἰδίων λόγων Ἑλλήνων μὲν οἱ σοφοί φασι, καίτοι πατέρας ἑαυτοὺς ὄντας τῶν ἰδίων λόγων. ἡ δὲ θεία Γραφὴ καὶ τῶν ἀπὸ καρδίας κινημάτων ποιητὰς ἡμᾶς διαγορεύει, ποιητὰς νόμου καὶ κρίσεως καὶ δικαιοσύνης λέγουσα. Ex eodem libro secundo.
PL 5, 126Aしかしもし誰かが、これが言葉について語られたことだと疑うとしても、それもまた、彼らは争わずに聞くべきであった。実に私は、言葉を造られたものとは考えず、その作り主としてではなく、神をその父であると言うのである。そしてたとえ私が、子について語るうちに、行きがけに神を作り主と言ったとしても、それでもなお、このように弁明することはできる。実にギリシャ人たちのうち知恵ある者たちは、自らを自らの言葉の作り主と言う——彼らは自らの言葉の父でもあるにもかかわらず。また神の聖典は、心から出る動きについても我々を作り主と呼ぶ。すなわち、律法と裁きと正義との作り主と言うのである。同じ第二巻より。
Caput XII
第XII章PL 5, 126B[0125] In principio erat Verbum: sed non erat Verbum quod Verbum produxerit (ex Athan., ibid., n. 25) : Verbum enim erat apud Deum (Joan., I) .
PL 5, 126B「初めに言葉があった」。しかし、言葉を発出させた者は言葉ではなかった(アタナシオス、同書、25節による)。「実に言葉は神のもとにあった」からである(ヨハネ1)。
Dominus sapientia est: non erat igitur sapientia qui sapientiam produxit; Ego enim eram, inquit, qua delectabatur (Prov. VIII, , 30) . Veritas est Christus: Benedictus autem, ait Deus veritatis. 12.
PL 5, 126B主は知恵である。それゆえ、知恵を発出させた者は知恵ではなかった。「実に私は」と〔知恵は〕言う、「彼が喜びとするものであった」(箴言8:30)。キリストは真理である。「しかし祝福されたことよ」と〔聖書は〕言う、「真理の神は」。
Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος· ἀλλ' οὐκ ἦν λόγος ὁ τὸν Λόγον προέμενος· Ἦν, γὰρ, ὁ Λόγος πρὸς τὸν Θεόν· σοφία γεγένηται ὁ Κύριος· οὐκ ἦν οὖν σοφία ὁ τὴν σοφίαν ἀνείς· Ἐγὼ, γὰρ, ἤμην, φησὶν, ᾗ προσέχαιρεν. ἀλήθειά ἐστιν ὁ Χριστός· Εὐλόγητος δὴ, φησὶν, ὁ Θεὸς τῆς ἀληθείας. (Profert haec S. Athanasius, ubi supra, n. XXI, p. 260.) Ex tertio libro.
PL 5, 126B「初めに言葉があった」。しかし、言葉を発出させた者は言葉ではなかった。「実に言葉は神のもとにあった」からである。主は知恵となった。それゆえ、知恵を発出させた者は知恵ではなかった。「実に私は」と〔知恵は〕言う、「彼が喜びとするものであった」。キリストは真理である。「祝福されたことよ」と〔聖書は〕言う、「真理の神は」。(これらをアタナシオスは、前掲書21節、260頁に引いている。)第三巻より。
Caput XIII
第XIII章PL 5, 126B[0125] Vita ex vita genita est, quemadmodum e fonte flumen emanavit, et ex inextincto lumine splendidum lumen accensum est (ex Athan., ibid., n. 18) . 13.
PL 5, 126B命は命から生まれた。泉から川が流れ出たように、また消えることのない光から輝かしい光が灯されたように(アタナシオス、同書、18節による)。
Ζωὴ ἐκ ζωῆς ἐγεννήθη· καὶ ὥσπερ ποταμὸς ἀπὸ πηγῆς ἔῤῥευσε· καὶ ἀπὸ ἀσβέστου λαμπρὸν φῶς ἀνήφθη. (Adducuntur haec a S. Athanasio Ep. de Sententia Dionysii, n. XVIII. p. 256.) Ex libro quarto.
PL 5, 126B命は命から生まれた。泉から川が流れ出たように、また消えることのない〔光〕から輝かしい光が灯されたように。(これらは、アタナシオスの書簡『ディオニュシオスの見解について』18節、256頁に引かれている。)第四巻より。
Caput XIV
第XIV章PL 5, 126C[0125] Sicut mens nostra eructat a seipsa verbum (Athanas., ibid., n. 23) , ut ait Propheta: Eructavit cor meum verbum bonum (Psal. XLIV, 2) , estque utrumque alterum ab altero, proprium et ab altero disctinctum obtinens locum, cum illud quidem in corde, istud vero in lingua et ore commoretur et moveatur: neque tamen inter se distant, aut se invicem privantur; neque mens sine verbo est, neque verbum sine mente: sed mens verbum facit et in ipso apparet, ac verbum exhibet mentem in qua factum est.
PL 5, 126C我々の精神が自らのうちから言葉を湧き出させるように(アタナシオス、同書、23節による)——預言者が「私の心は良き言葉を湧き出させた」(詩篇44:2)と言うとおりである——、両者は互いに異なるものであり、それぞれ固有の、他から区別された場を占めている。前者は心のうちに、後者は舌と口のうちに留まり動くのであるが、しかし両者は互いに隔たっているのでも、互いを欠いているのでもない。精神は言葉なしにはなく、言葉も精神なしにはない。むしろ精神は言葉を造り、その言葉のうちに現れる。そして言葉は、自らがそのうちで造られた精神を示すのである。
Et mens quidem est quasi verbum immanens, verbum vero mens prosiliens. Mens in verbum transit: verbum autem mentem in circumstantes auditores transmittit: sicque mens per verbum in auditorum animis insidet, simul ingressa cum verbo.
PL 5, 126C精神はいわば内在する言葉であり、言葉はいわば飛び出す精神である。精神は言葉へと移り、言葉は精神を、周りにいる聞き手たちへと伝える。こうして精神は、言葉とともに入り込みながら、言葉を通して聞く者たちの魂のうちに宿るのである。
Ac mens quidem est quasi pater verbi in seipsa existens; verbum autem velut filius mentis, ne ante ipsam neque extra ipsam factum esse potest, sed cum ipsa existit, a qua germen et originem sumpsit. eodem quoque modo Pater maximus et mens universalis ante omnia Filium habet Verbum ac sermonem sui ipsius interpretem et angelum.
PL 5, 126C精神は、自らのうちに存在しつつ、いわば言葉の父であり、言葉はいわば精神の子であって、精神に先立っても精神の外にあっても造られることはできず、精神とともに存在し、精神から芽生えと起源とを受け取ったのである。同じように、至高の父にして普遍的な精神は、万物に先立って子、すなわち言葉——御自身を解き明かす者にして使者である言葉——をお持ちなのである。
14. Ὡς γὰρ ὁ ἡμέτερος νοῦς ἐρεύγεται μὲν ἀφ' ἑαυτοῦ τὸν λόγον, ὡς εἶπεν ὁ προφήτης, Ἐξηρεύξατο ἡ καρδία μου λόγον ἀγαθόν· καὶ ἔστι μὲν ἑκάτερος ἕτερος θατέρου, ἴδιον καὶ τοῦ λοιποῦ κεχωρισμένον εἰληχὼς τόπον, ὁ μὲν ἐν τῇ καρδίᾳ, ὁ δὲ ἐπὶ τῆς γλώττης καὶ τοῦ στόματος οἰκῶν τε καὶ κινούμενος· οὐ μὴν διεστήκασιν, οὐδὲ καθάπαξ ἀλλήλων στέρονται, οὐδέ ἐστιν οὔτε ὁ νοῦς ἄλογος οὔτε ἄνους ὁ λόγος· ἀλλ' ὅγε νοῦς ποιεῖ τὸν λόγον ἐν αὐτῷ φανεὶς, καὶ ὁ λόγος δείκνυσι τὸν νοῦν, ἐν αὐτῷ γενόμενος. καὶ ὁ μὲν νοῦς ἐστιν οἶον λόγος ἐγκείμενος· ὁ δὲ λόγος νοῦς προπηδῶν· καὶ μεθίσταται μὲν ὁ νοῦς εἰς τὸν λόγον, ὁ δὲ λόγος τὸν νοῦν εἰς τοὺς ἀκροατὰς ἐγκυκλεῖ, καὶ οὕτως ὁ νοῦς διὰ τοῦ λόγου ταῖς τῶν ἀκουόντων ψυχαῖς ἐνιδρύεται. συνεισιὼν τῷ λόγῳ· καὶ ἔστιν ὁ μὲν οἷον πατὴρ ὁ νοῦς τοῦ λόγου, ὢν ἐφ' ἑαυτοῦ· ὁ δὲ καθάπερ υἱὸς ὁ λόγος τοῦ νοῦ, πρὸ ἐκείνου μὲν ἀδύνατον, ἀλλ' οὐδὲ ἔξωθέν ποθεν, σὺν ἐκείνῳ γενόμενος, βλαστήσας δὲ ἀπ' αὐτοῦ. οὕτως ὁ Πατὴρ ὁ μέγιστος καὶ καθόλου νοῦς πρῶτον τὸν Υἱὸν Λόγον ἑρμηνέα καὶ ἄγγελον ἑαυτοῦ ἔχει. (Adducuntur haec a S. Athanasio, ubi supra, n. 23, p. 259.) Circa medium operis.
PL 5, 127A実に、我々の精神が自らのうちから言葉を湧き出させるように——預言者が「私の心は良き言葉を湧き出させた」と言ったとおりである——、両者はそれぞれ他と異なり、固有の、他から区別された場を占めている。一方は心のうちに、他方は舌と口の上に住まい動きながら。しかし両者は隔てられているのでも、まったく互いを欠いているのでもない。精神が言葉を欠くこともなく、言葉が精神を欠くこともない。むしろ精神は、自らのうちに現れつつ言葉を造り、言葉は、精神のうちに生じつつ精神を示す。精神はいわば内にある言葉であり、言葉はいわば飛び出す精神である。そして精神は言葉へと移り、言葉は精神を聞く者たちへとめぐらせる。こうして精神は、言葉とともに入りながら、言葉を通して聞く者たちの魂のうちに据えられるのである。精神は、自らのうちに在りつつ、いわば言葉の父であり、言葉はいわば精神の子であって、精神に先立つことはできず、また外のどこかからでもなく、精神とともに生じ、精神から芽生え出たのである。このように、至高の父にして普遍的な精神は、御自身を解き明かす者・使者である子・言葉を、何よりも先んじてお持ちなのである。(これらはアタナシオス、前掲書23節、259頁に引かれている。)作品の半ばあたり。
Caput XV
第XV章PL 5, 128A[0127] Si eo quod tres sint hypostases, divisas dicant, tres sunt, etiamsi nolint; aut divinam Trinitatem prorsus e medio tollant. (Ex Basilio, lib. de Spir. sancto, c. 29) . 15.
PL 5, 128Aもし三つの位格があることのゆえに、それらを分割されたものだと〔彼らが〕言うのならば、彼らが望まなくとも、それらは三つなのである。さもなければ、神的な三なるものをまったく取り除いてしまうがよい(バシレイオス、『聖なる霊について』第29章より)。
Εἰ τῷ τρεῖς εἶναι τὰς ὑποστάσεις, μεμερισμένας εἶναι λέγουσι, τρεῖς εἰσι, κᾂν μὴ θέλωσιν, ἢ τὴν θείαν ΤΡΙΑΔΑ παντελῶς ἀνελέτωσαν. Ac rursum: [0127] Καὶ πάλιν (inquit S. Basilius M. ) : Θειοτάτηγὰρ, διὰ τοῦτο, μετὰ τὴν Μονάδα, καὶ ἩΤΡΙΑΣ.
PL 5, 128Aもし三つの位格があることによって、それらは分割されたものだと〔彼らが〕言うのならば、彼らが望まなくとも、それらは三つである。さもなければ、神的な三なるものをまったく取り除いてしまうがよい。また再び、大バシレイオスは言う。実にこのゆえに、一なるものの後にも、三なるものはいと神々しいのである。
Extant haec apud S. Basilium Magnum de Spiritu Sancto, cap. penult. p. 61. Propter hoc enim, post unitatem, est et divinissima Trinitas. Clausula totius operis.
PL 5, 128Aこれらは、大バシレイオスの『聖なる霊について』、最後から二番目の章、61頁に見られる。実にこのゆえに、一なるものの後にも、いと神々しき三なるものはあるのである。全体の結び。
Caput XVI
第XVI章PL 5, 128B[0127] His omnibus congruenter et nos, etiam forma regulaque a senioribus qui ante nos vixerunt accepta, concordi cum illis voce et gratiarum actionem et nunc etiam epistolam quam scribimus vobis absolvemus: Deo autem Patri et Filio Domino nostro Jesu Christo cum sancto Spiritu gloria et imperium in saecula saeculorum.
PL 5, 128Bこれらすべてに即して、我々もまた、我々に先立って生きた長老たちから受け継いだ型と規範とに従い、彼らと声を合わせて、感謝を捧げつつ、いま諸君に書き送るこの書簡をも終えることとする。神なる父と、我々の主イエス・キリストなる子とに、聖なる霊とともに、栄光と支配とが世々限りなくあるように。
Amen. 16. Τούτοις πᾶσιν ἀκολούθως καὶ ἡμεῖς, καὶ δὴ παρὰ τῶν πρὸ ἡμῶν πρεσβυτέρων τύπον καὶ κανόνα παρειληφότες, ὁμοφώνως τε αὐτοῖς προσευχαριστοῦντες, καὶ δὴ καὶ νῦν ὑμῖν ἐπιστέλλοντες, καταπαύσομεν· τῷ δὲ Θεῷ Πατρὶ, καὶ Υἱῷ τῷ Κυρίῳ ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστῷ, σὺν τῷ ἁγίῳ Πνεύματι, δόξα καὶ κράτος εἰς τοῦς αἰῶνας τῶν αἰώνων.
PL 5, 128Bアーメン。これらすべてに即して、我々もまた、我々に先立つ長老たちから型と規範とを受け継ぎ、彼らと声を合わせて感謝を捧げつつ、そしていま諸君に書き送りながら、〔この書簡を〕終えることにしよう。神なる父と、我々の主イエス・キリストなる子とに、聖なる霊とともに、栄光と支配とが世々限りなくあるように。
Ἀμήν. (Adduxit haec S. Basilius M. in Lib. de Spiritu Sancto, cap. penult. p. 60, ed. Benedictin.) De opere ipso haec retulit S. Athanasius.
PL 5, 128Bアーメン。(これらを大バシレイオスは、『聖なる霊について』、最後から二番目の章、ベネディクト会版60頁に引いている。)作品そのものについては、アタナシオスがこれらを伝えている。
Caput XVII
第XVII章PL 5, 128B[0127] Queritur deinde (Dionysius), quod accusatores sententias suas non integras referant, sed truncatas, et quod non bona conscientia, sed mala pro libidine loquantur; quos similes ait beati apostoli epistolarum calumniatoribus.
PL 5, 128B続いて(ディオニュシオスは)、告発者たちが、自分の文言を完全な形でではなく、切り取って伝えていること、また、良き良心からではなく悪しき良心から、意のままに語っていることを難ずる。彼は、彼らを、幸いなる使徒の書簡を中傷する者たちに似た者だと言う。
Certe singulis accusatorum verbis occurrens, omnibus eorum argumentis solutionem adhibet; cumque Sabellium prioribus illis scriptis planissime confutarit, his posterioribus fidem suam omnino piam declarat. 17.
PL 5, 128B実に、告発者たちの一つひとつの言葉に対応しつつ、彼らのすべての論拠に解決を与える。そして、先の著作においてサベリウスをこの上なく明白に論駁した上で、この後の著作において、自らの信仰がまったく敬虔なものであることを明らかにするのである。
Αἰτιᾶται (Dionysius) τοὺς κατειπόντας αὐτοῦ, ὡς μὴ ὁλοκλήρους λέγοντας, ἀλλὰ περικόπτοντας αὐτοῦ τὰς λέξεις, καὶ ὡς μὴ καλῇ συνειδήσει, ἀλλὰ πονηρᾷ, λαλοῦντας ὡς θέλουσι. τούτους τε τούτοις ἀπεικάζει τοῖς τὰς τοῦ μακαρίου Ἀποστόλου διαβάλλουσιν Ἐπιστολάς . . . . . . ἀμέλει καὶ πρὸς ἕκαστον τῶν ὑπὸ τῶν κατηγόρων εἰρημένων ἁπαντῶν, πάντα τὰ παρ' αὐτῶν προφερόμενα θεραπεύει· καὶ Σαβέλλιον μὲν ἐν ἐκείνοις (scil. in prius scriptis) ἀνατρέπει, ἐν τούτοις δὲ δείκνυσιν ὁλόκληρον ἑαυτοῦ τὴν εὐσεβῆ πίστιν. (De Sententia Dionysii; num. XIV, p. 253.)
PL 5, 128B(ディオニュシオスは)自分を告発した者たちを咎める。彼らが〔自分の〕言葉を完全な形で語らず切り取っていること、また、良き良心からではなく悪しき良心から、望むままに語っていることのゆえにである。そして彼は、これらの者たちを、幸いなる使徒の書簡を中傷する者たちになぞらえる。……実に、告発者たちによって語られたことの一つひとつに対応しつつ、彼らが差し出したすべての事柄に解決を与える。そして、それらの中で(すなわち先の著作の中で)サベリウスを覆し、これらの中では、自らの敬虔な信仰を余すところなく示すのである。(『ディオニュシオスの見解について』14節、253頁。)