
- 生没
- 100年頃 – 165年頃
- 地
- フラウィア・ネアポリス(現ナーブルス、サマリア)
- 公開
- 2 作品 · 459 節
経歴
100年頃、サマリアのフラウィア・ネアポリス(現在のナーブルス)に生まれた。ストア派・逍遥学派・ピュタゴラス派を渡り歩いたのちプラトン主義に落ち着いたが、海辺で出会った老人との対話をきっかけにキリスト教徒になったと、自身の『トリュフォンとの対話』が伝えている。
アントニヌス・ピウス帝の頃にローマへ出て、自分の学校を開いた。タティアノスはその門下である。キュニコス派の哲学者クレスケンスと論争したのち告発され、都市長官ユニウス・ルスティクスの法廷で裁かれて、六人の同志とともに斬首された。162年から168年のあいだのこととされる。
テルトゥリアヌスは彼を「哲学者にして殉教者たるユスティノス」と呼び、『ウァレンティヌス派反駁』5章で、グノーシス主義に反論した先人の筆頭に挙げている。
主張
彼の中心にあるのは「種を蒔かれたロゴス(logos spermatikos)」という考えである。神のロゴスは世界のどこにでも種として蒔かれているのだから、キリスト以前のギリシア人にも真理の分け前はあった——ソクラテスは、それと知らずにキリスト者だった、という言い方までしている。
これは、キリスト教を哲学の敵ではなく「真の哲学」として提示する構えである。彼が回心後も哲学者の外套(パリウム)を脱がなかったと伝えられるのは、その姿勢の現れでもある。
『第一弁明』の末尾で洗礼と聖餐の次第を具体的に書き留めており、2世紀の礼拝がどう行われていたかを知るための、最も古く最も詳しい記録になっている。
代表作
『第一弁明』——ローマ皇帝アントニヌス・ピウスと元老院に宛てて、キリスト教徒が名前だけで裁かれていることを訴えた書。末尾で洗礼と聖餐の次第を具体的に書き留めており、2世紀の礼拝を知るための最も古く詳しい記録になっている。
『第二弁明』——ある一家の改宗をめぐって三人が処刑された事件を機に書かれた、短い訴え。
本サイトはこの2篇を公開している。**底本はミーニュ『ギリシア教父全集』第6巻ではなく、First1KGreek / Perseus に入っている近代の校訂版(Rauschen, Bonn 1911)である。**ミーニュ版の欄番号(PG 6, 327–440 および 441–470)は、作品全体の所在としてのみ記している。
『トリュフォンとの対話』——ユダヤ教徒トリュフォンとの長い討論の形で、旧約聖書がキリストを指していることを論じる。本サイトでは未訳。
『ギリシア人への講話』などは、現在では彼の作ではないとされる。