Patristica — 教父文献 日本語対訳 › 著者

ウィエンヌとリヨンの教会 Ecclesiae Viennensis et Lugdunensis

The Churches of Vienne and Lyons · 自分たちの殉教者たちのことを、小アジアの諸教会へ書き送った二つの教会。

ギリシア教父殉教者ガリア教会の書簡
生没
— – —
地
リヨンとウィエンヌ(ガリア)
公開
1 作品 · 78 節

書き手について

個人ではなく、二つの教会が名を連ねた書き手である。ローヌ川沿いのリヨン(ルグドゥヌム)とウィエンヌの教会が、177年の迫害の直後に、アシアとフリュギアの諸教会へ宛てて、自分たちのもとで起きたことを報告した。

書いたのが誰かは分からない。手紙は終始一人称複数で語り、署名を持たない。エイレナイオスがこの教会の長老であり、手紙自身が彼をローマへ遣わしたと記しているため、彼を書き手に擬する説は古くからあるが、手紙はそう言っていない。

ガリアの教会が史料に現れる最初の場面である。この手紙より前に、ローヌ流域のキリスト教徒について語る文書は無い。書き手たちは小アジアの諸教会を「兄弟たち」と呼んでおり、この教会が東方から来た人々を含んでいたことがうかがえる。

伝わり方

手紙は独立には伝わらなかった。エウセビオスが『教会史』第5巻の冒頭にほぼ全文を引き、それだけが残った。

そのため本文にはエウセビオス自身の言葉が混ざっている。どこからどこまでが手紙かを示す印は写本に無く、本サイトはその切り分けをしない——第5巻第1章から第4章までを、引かれた形のまま収めてある。

エウセビオスは別の箇所で、この手紙を含む『殉教者たちの集成』という自分の編纂物に触れている。その書物は失われた。

何が残ったか

『ポリュカルポス殉教録』に次いで古い殉教の記録であり、分量では大きく上回る。帝国内の迫害を、当事者の側から、日を追って伝える史料はほかに乏しい。

女奴隷ブランディナがこの手紙の中心にいる。最も弱い者とされた者が最後まで残り、他の者たちを励ます——という筋立ては、書き手たちが選び取ったものである。

「殉教者」という語の意味が動く現場でもある。生き残って獄にある者たちが、その名を自ら名乗ることを拒み、死んだ者たちにだけ譲る一段(5.2.2–5.2.4)がある。〈証人〉から〈殉教者〉へ語義が固まっていく途中の姿がここにある。

本サイトで公開している著作