
経歴
155年頃、ローマ属州アフリカの首都カルタゴに生まれた。弁論の盛んな土地で修辞を学んでおり、その訓練は生涯にわたって彼の文章に残っている。197年頃にキリスト教徒になった。
法律家であったとも、司祭に叙されていたとも古くから言われるが、どちらもヒエロニュムスの証言にさかのぼるもので、現代の研究は慎重である。彼は自分の著作のどこでも自分を聖職者として語っておらず、著作に見える法律の知識も、当時の一般的な教養として説明がつく範囲である。
207年頃から、小アジアに起こった預言運動——のちにモンタノス派と呼ばれるもの——に近づいた。かつては「教会を離れて異端に走った」と語られたが、正式に離脱した証拠も破門された証拠もない。アウグスティヌスはカルタゴに「テルトゥリアヌス派」と呼ばれる小さな集団がいたと書き残しているが、彼自身がそれを作ったかどうかは分からない。没年は220年以後とされる。
主張
彼のいちばん大きな仕事は、それまでギリシア語で考えられていた事柄を、ラテン語で言えるようにしたことである。trinitas(三一性)、persona(位格)、substantia(実体)、sacramentum といった語に神学上の重みを与えたのは彼で、西方の教会はその後千数百年にわたって、彼の作った語彙で神を論じることになった。『プラクセアス反駁』の「三つの位格、一つの実体」という言い方は、その到達点である。
ただし彼の三一論は、のちに正統とされた定式とそのまま重なるわけではない。子と霊は父に従属するものとして語られており、この点は後世に受け入れられなかった。
相手によって攻め方を変える人でもあった。異端に対しては、聖書の解釈を争う前にそもそも彼らに聖書を持ち出す資格がないと論じ(『異端者への抗弁』)、マルキオンに対しては旧約の神と新約の神が同一であることを五巻かけて論じ、ローマの官憲に対しては、キリスト教徒を裁く手続きそのものが法に反していると突いた(『護教論』)。
哲学との関係は「アテナイとエルサレムに何の関わりがあるか」の一句で要約されがちだが、彼自身はストア派の用語を終始使っており、単純な哲学嫌いではない。
代表作
『護教論』(197年)——迫害のさなかに、ローマの属州総督たちへ宛てて書かれた弁明。キリスト教徒を裁く手続きが法として成り立っていないことを、法廷の言葉で突いた。
『異端者への抗弁』——聖書の一句一句を争うのではなく、そもそもの資格を問うという構えを立てた書。抗弁(praescriptio)は法廷用語である。
『マルキオン反駁』全5巻——現存する著作のうち最も長い。旧約の神と新約の神を切り離そうとしたマルキオンに、正面から答えている。
『プラクセアス反駁』——父と子と聖霊をどう語るかをめぐる書。ラテン語の三一論はここから始まる。
『魂について』——魂の起源・性質・行方を、医学と哲学の議論を引きながら論じた長編。
真作として伝わる著作は31篇あり、本サイトはその全部を訳している。ただし『ユダヤ人反駁』の後半のように、真正性について議論の続いているものも含まれる。