- 生没
- 不詳(3世紀初頭) – 不詳(258年頃か)
- 地
- ローマ
- 公開
- 3 作品 · 653 節
経歴
ローマ教会の長老(presbyter)であった。生年は分からない。重い病の床で洗礼を受けたと伝えられ、そのことが後に彼の資格を疑う口実に使われている。
249年から251年のデキウス帝の迫害が、彼の生涯を決めた。迫害のあいだローマの司教座は空いており、彼はローマ教会の事実上の筆頭として、カルタゴのキプリアヌスと書簡を交わしている。その二通は今もキプリアヌスの書簡集の中に残っている。
迫害が収まると、迫害中に信仰を捨てた者(lapsi)を教会に戻すかどうかが最大の争点になった。251年に選ばれた司教コルネリウスは、悔い改めた者を受け入れる側に立った。ノウァティアヌスは受け入れない側に立ち、自らも司教に立てられた。ローマ史上最初の対立司教である。
この分裂は彼一代で終わらなかった。ノウァティアヌス派と呼ばれる教会は、その後数世紀にわたって東方にも西方にも存続している。没年は確かでないが、258年頃のウァレリアヌス帝の迫害で殉教したとする伝承がある。
主張
『三一性について』は、ラテン語で書かれた、まとまった三位一体論としては最初のものである。ニカイア公会議(325年)より70年以上早い。
組み立ては明快で、「真理の規範」(regula veritatis)——後に信条と呼ばれるようになるもの——を一条ずつ註解していく形をとる。父なる神を第1章から第8章まで、子を第9章から第28章まで、聖なる霊を第29章で扱い、最後の二章で神の一性と全体の要約に戻る。
分量の3分の2は子に費やされている。キリストが真の人であり、かつ真の神であることを、旧約と新約の双方から積み上げる。とりわけ、旧約で族長たちに現れた「主の使い」は子である、という論証(第18–20章)は、この時代の読み方をよく示している。
後半はサベリウス派との争いである。父と子を同一の存在の二つの現れ方とみなす説に対し、聖書から両者の区別を立てる。テルトゥリアヌス『プラクセアス反駁』と同じ論敵であり、用語も多くを引き継いでいる。
ただし彼は、父と子が同じ実体であるとまでは言い切っていない。その定式が現れるのは次の世紀である。ここにあるのは、まだ言葉を探している段階の議論であり、それがこの書を読む値打ちでもある。
代表作
『三一性について』——本サイトはこれを全31章546節で訳している。ミーニュ版での所在は PL 3, 886A–952C。
この作品は長く著者の名を失っていた。中世を通じてテルトゥリアヌスの著作集の中に写され、そちらのものとして読まれていた。ヒエロニュムスがノウァティアヌスの著作として『三位一体について』を挙げていることから、16世紀以降に著者が戻された。
ほかに二篇が伝わっており、どちらも本サイトに収めた。
『ユダヤ人の食物規定について』(PL 3, 953A–964A、全7章77節)——迫害を避けて身を隠しているあいだにローマの信徒へ宛てた書。ユダヤ教の食物規定を扱いながら、論の芯は「律法をどう読むか」にある。律法は霊的なものであり、食物の禁忌は徳と悪徳の教えとして読まねばならない、と説く。食物の自由が与えられたことは放埒の許しではない、という第6章の一線が後半を貫いている。
『キプリアヌスへの書簡』(PL 3, 963B–970C、全7章32節)——250年、デキウス帝の迫害のさなかに、ローマの聖職者団の名においてカルタゴの司教キプリアヌスへ宛てられた公文書。キプリアヌスの書簡集では第30書簡として伝わる。迫害中に信仰を捨てた者たちをどう扱うかを論じ、教会に平和が戻り司教が立てられるまで赦しを待つべきだとする。「倒れた者は教会の門を叩けばよい。ただし打ち破ってはならない」という一句がよく知られている。
この書簡は、彼がまだローマ教会を割る前のものである。分裂は翌251年に起こる。