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ラクタンティウス Lucius Caelius Firmianus Lactantius

Lactantius · コンスタンティヌスの宮廷に仕えた修辞学者で、その流麗なラテン語から「キリスト教のキケロ」と呼ばれた。

ラクタンティウスの肖像
1456年頃、彩飾写本『神学提要』の扉ページの余白に描かれた肖像メダイヨン(画家 Ser Ricciardo di Nanni)。同時代の図像ではなく、生前の姿を伝えるものではない。 The J. Paul Getty Museum, Ms. Ludwig XI 7, fol. 2(パブリックドメイン)
ラテン教父北アフリカ護教
生没
240年頃 – 320年頃
地
北アフリカ(出身の町は不明)
公開
5 作品 · 4868 節

経歴

240年頃、北アフリカで生まれた(出身の町は分かっていない)。修辞学を修め、ディオクレティアヌス帝によってニコメディアのラテン語修辞学教師として招かれた。この地はギリシア語の街であったため生徒は少なく、貧しい暮らしをしていたとヒエロニュムスは伝える。

すでにキリスト教徒になっていた彼は、303年に始まったディオクレティアヌスの迫害を機に教職を退き、以後何年も困窮のうちに執筆で生計を立てた。のちにコンスタンティヌス帝に見出され、310年前後、皇帝の子クリスプスのラテン語家庭教師として召し抱えられた。317年、クリスプスが副帝としてトリーアに赴くとこれに従い、320年頃、同地で没したとされる。326年のクリスプス処刑を、彼が生きて知ったかどうかは分からない。

主張

最大の仕事は『神学提要』全7巻(303〜311年頃、後にコンスタンティヌスへの献辞を加えて改訂)である。教養あるローマの異教徒に向けて、キリスト教を体系立てて弁証する書としてラテン語で書かれたもので、偽りの宗教(第1巻)、誤謬の起源(第2巻)、偽りの知恵=哲学(第3巻)、真の知恵と宗教=キリスト(第4巻)、正義(第5巻)、真の礼拝(第6巻)、幸福な生=終末(第7巻)という構成を取る。晩年にはこれを自ら短縮した『要約』を、友人ペンタディウスに宛てて書いている。

彼の文章は、キケロの周期文をほぼそのまま受け継いだ流麗なラテン語で知られ、ルネサンス期の人文主義者たちから「キリスト教のキケロ」と呼ばれた。ヒエロニュムスも彼の雄弁は認めつつ、「自説を主張する力はあっても、他説を論証する力に乏しい」と評しており、神学的な精度には手厳しい。実際、彼の三一論は子の父への従属を色濃く残しており、テルトゥリアヌス同様、後世に定まった正統教義とそのまま重なるものではない。

代表作

『神学提要』全7巻——上記。現存する著作のうち最も長く、最も体系的な一書。

『要約』——『神学提要』を自ら短縮した書。同じ材料を、より簡潔な形で辿り直している。

『神の怒りについて』——エピクロス派やストア派の説く無感情な神に反論し、神が悪を怒ることの理にかなっていることを論じた小品。

『神の技巧について』——人体の構造そのものが神の摂理の証拠であると論じた書。

『迫害者たちの死について』——ディオクレティアヌスからガレリウスに至る、キリスト教徒を迫害した皇帝たちが皆非業の死を遂げたと説く書。ラクタンティウスの作とされているが、写本上は無記名であり、彼の筆であることは確実ではない。

なお、1465年にスビアコで印刷された彼の著作集は、イタリアで刷られた最初の年記入り印刷本であり、ギリシア文字が活字で印刷された最初の例としても知られる。

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