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インノケンティウス1世 Innocentius I papa

Pope Innocent I · 401年から417年までのローマ司教。ヨアンネス・クリュソストモスの追放に抗議してその復位を求め、各地の司教の問い合わせに規律の教令書簡で答え、晩年にはアフリカの教会会議の求めに応じてペラギウスとカエレスティウスを断罪した。

ローマ司教
生没
不詳 – 417年
地
ローマ
公開
2 作品 · 695 節

経歴

インノケンティウス1世(Innocentius I)は、401年12月、アナスタシウス1世の没後にローマ司教となった。『教皇の書』はアルバノの生まれとする。

東方では、404年にコンスタンティノポリスの司教ヨアンネス・クリュソストモスが追放されると、その断罪を認めず、西方の皇帝ホノリウスを通じて教会会議による裁きを求めた。クリュソストモスの名が教会の名簿(ディプティカ)に戻されるまで、アンティオキアやコンスタンティノポリスとの交わりを控えた。

西方では、ルーアンのウィクトリキウス、トゥールーズのエクスペリウス、グッビオのデケンティウスなど各地の司教の問い合わせに答えて、叙階・聖職者の節制・悔悛・典礼などの規定を書き送った。エクスペリウスへの書簡には聖書の正典の表が含まれる。テッサロニケの司教に東イリュリクムの諸教会への監督を委ねた。410年のアラリックによるローマの略奪のとき、彼はラヴェンナにいた。

416年、カルタゴとミレウィスの教会会議と、アウグスティヌスら5人の司教が、ペラギウスとカエレスティウスの教えの断罪を求めて書き送ると、417年1月の返書でこれに応じ、二人を交わりから退けた。417年3月に没し、ゾシムスが後を継いだ。

PL 20(463–639欄)に、ミーニュがコスタンの版から彼の書簡と教令、教令の摘要、彼の名で伝わる偽作の書簡を収める。

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