- 生没
- 200年頃 – 258年9月14日
- 地
- カルタゴ
- 公開
- 17 作品 · 3278 節
経歴
カルタゴの司教。258年に斬首された。
裕福な家に生まれ、修辞学を教えていた。246年頃、四十代でキリスト教に改宗する。改宗にあたって財産を貧者に分け与えたと伝えられる。洗礼から二、三年のうちに司祭となり、248年か249年にはカルタゴの司教に選ばれた。新受洗者のまま司教に立てられたことは、当時すでに異例とされ、彼に反対する司祭たちを生んだ。
司教になって間もなく、デキウスの迫害が始まる(250年)。彼は身を隠し、書簡で教会を導いた。この判断はのちのちまで非難され、助祭ポンティウスの伝記は一章を割いてそれを弁護している。
迫害が去ると、信仰を捨てた者たちを教会に戻すかどうかをめぐって争いが起きた。彼は悔悛を経ての復帰を認める立場を採り、ローマの司教コルネリウスと連携した。その往復は本サイトの『書簡集』(コルネリウス)に収めてある。
255年からは異端者の授けた洗礼を有効と認めるかをめぐって、ローマの司教ステファヌス1世と対立する。キプリアヌスは無効とし、ステファヌスは有効とした。本サイトの『異端者の洗礼について』はこの論争の文書群である。決着を見ないまま、ステファヌスは257年に、キプリアヌスは258年に世を去った。
258年9月14日、ウァレリアヌスの迫害のもとで斬首された。総督の法廷でのやりとりは『裁判記録』に、生涯の全体は助祭ポンティウスの伝記に残っている。
主張
教会の一致が、彼の考えのすべての中心にある。
『教会の一致について』の有名な一句——教会を母として持たない者は、神を父として持つことができない——がその要約である。分裂した側にいる限り、殉教してさえ救われない、と彼は説いた。
この原理から二つの帰結が出る。
第一に、司教は一人である。一つの教会に二人の司教はありえない。だからノウァティアヌスがローマで対立司教を立てたことは、それだけで教会の外に出ることであった。
第二に、教会の外に秘跡は無い。異端者や離教者が授ける洗礼は、水を注いだだけであって洗礼ではない。だから彼らが教会へ来るときは「もう一度」洗礼を授けるのではなく、初めて洗礼を授けるのだ——キプリアヌスはこの言い方に強くこだわった。ステファヌスとの対立点はここにある。
この論争でローマ側が勝った。のちの西方教会は、異端者の授けた洗礼も三位一体の名によるなら有効とする立場を採る。だがキプリアヌスの筋の通し方は、アウグスティヌスがドナトゥス派と論じるときの出発点になり続けた。
背教した者の扱いについては、中間の道を採っている。二度と戻さないという厳格派(ノウァティアヌス)と、すぐ戻せという寛容派(フェリキッシムス)の双方を退け、罪の重さに応じて悔悛の期間を定めるという道である。犠牲を捧げた者と、証明書だけを買った者とを区別したのがその要である。
代表作
本サイトが訳しているのは次のもの。
『異端者の洗礼について』——ステファヌス1世との論争をめぐる書簡群。全6書簡82章。ミーニュ版での所在は PL 3, 1103A–1178A。キプリアヌス自身の書簡は4通で、残る2通はアレクサンドリアのディオニュシオスとカエサレアのフィルミリアヌスのものである。ミーニュはこの論争を一続きの資料として組んだ。
そのほか、『書簡集』(コルネリウス)の12通のうち10通が彼の筆になる。『裁判記録』は彼の裁判と処刑の記録であり、『キプリアヌスの生涯と受難』(ポンティウス)は助祭が書いた伝記である。
『教会の一致について』『背教した者たちについて』『主の祈りについて』といった主要な論説は PL 4 にあり、まだ訳していない。