Patristica — 教父文献 日本語対訳 › 著者

コルネリウス教皇 Cornelius papa

Pope Cornelius

ラテン教父ローマ司教殉教者
生没
253年
地
ローマ
公開
1 作品 · 373 節

経歴

251年から253年まで、ローマの司教であった。生まれた年も、司教になる前の経歴も伝わらない。

前任のファビアヌスがデキウスの迫害で殺されたあと、ローマの座は一年あまり空いたままだった。迫害のさなかに後継を選べば、その人がただちに次の標的になるからである。迫害が緩んだ251年3月、コルネリウスが選ばれた。

選出の直後に分裂が起きる。ローマの司祭ノウァティアヌスが、自分こそ正統の司教であると称して別の座を立てた。争点は迫害中に信仰を棄てた者——背教した者たち——の扱いであった。コルネリウスは悔い改めた者を教会に戻す道を認め、ノウァティアヌスはこれを拒んだ。

カルタゴの司教キプリアヌスがコルネリウスの側に立ち、二人のあいだで多くの書簡が交わされた。本サイトが訳している『書簡集』は、その往復そのものである。

253年、皇帝ガッルスのもとで迫害が再び起こり、コルネリウスはケントゥムケッラエ(今のチヴィタヴェッキア)へ追放された。その地で没した。流刑地での死をもって殉教とみなされ、遺骸はのちにローマへ移された。

主張

争点は一つに絞られる。棄教した者を、教会は再び受け入れるか。

デキウスの迫害は、皇帝への犠牲を全住民に命じ、それを済ませた証明書を求めた。多くの信徒が犠牲を捧げ、あるいは捧げずに証明書だけを買った。迫害が過ぎると、その人々が戻ってきた。

ノウァティアヌスは、教会にそれを赦す権能は無いと説いた。教会は聖なる者の集まりであり、汚れた者を容れれば教会でなくなるという筋である。コルネリウスとキプリアヌスは反対に、悔悛の期間を経たうえで受け入れる道を採った。赦しを与える権能は教会にあり、罪の重さに応じて期間を定めればよいという筋である。

この立場が、のちの西方教会の悔悛の制度の出発点になった。

もう一つ、コルネリウスの筆で残った有名な一節がある。アンティオキアの司教ファビウスへの書簡で、彼はローマ教会の人員を数え上げている——司祭46人、助祭7人、副助祭7人、侍祭42人、祓魔師と読師と守門あわせて52人、扶助を受ける寡婦と貧者1500人あまり。3世紀半ばのローマ教会の規模を伝える、ほとんど唯一の数字である。

代表作

『書簡集』——本サイトはこれを全12書簡83章で訳している。ミーニュ版での所在は PL 3, 0699A–0838A。

「コルネリウスの書簡集」と題されているが、彼自身が書いたのは一部である。大半はキプリアヌスがコルネリウスに宛てたものであり、ミーニュはこの往復をコルネリウスの項にまとめて印刷した。だからこの書は、一人の著者の文集ではなく、ノウァティアヌス分裂をめぐる二人の司教のやりとりの記録として読むのが正しい。

第IX項だけが性格を異にする。ファビウス宛の書簡は原文が失われ、エウセビオスが『教会史』第6巻43章に引いたギリシア語の抜粋として残った。ミーニュはそのギリシア語と、それに向かい合わせたラテン語訳とを並べて組んでいる。本サイトは両方を本文として訳している。

本サイトで公開している著作